第五十章

第五十章

第五十祖天童浄和尚雪竇に参ず。竇問ひて日く、浄子曾て染汚せざる処如何が浄得せん。師一歳余を経て忽然豁悟して日く、不染汚の処を打す。


師諱は如浄、十九歳より教学を捨て祖席に参ず。雪竇の会に投じて便ち一歳を経る。尋常坐禅すること抜群なり。有る時浄頭(便所掃除の役)を望む。時に竇問いて日く、曾て染汚せざる処如何が浄得せん。若し道い得ば汝を浄頭に充てん。師措くことなし。両三カ月をへるに猶未だ道い得ず。有る時師を請し方丈に到らしめて問いて日く、先日の因縁道得すや。師擬議す。時に竇示して日く、浄子曾て染汚せざる処如何が浄め得ん。答えずして一歳余を経る。竇又問いて日く、道い得たりや。師未だ道い得ず。時に竇日く、旧窩を脱して当に便宜を得べし。如何ぞ道い得ざる。然しより師聞いて得励志工夫す。一日忽然として豁悟し、方丈に上て即ち日く、某甲道得すと。竇日く、這回道得せよ。師不染汚の処を打すと云う。声未だ畢らざるに竇即ち打つ。師流汗して礼拝す。
竇即ち許可す。
十九歳の時発心してより後、叢林の掛錫して再び郷里に還らず、郷人と物語せず、都べて諸寮舎に到ることなし、上下肩隣位に相語らず。只管打坐するのみなり。臀肉穿てるも尚坐を止めず。発心より天童に住する六十五歳まで、未だ蒲団にさえられざる日夜あらず。誓いて僧堂に一如ならんという、芙蓉より伝わる衲衣ありと雖も、上堂入室ただ黒色の袈裟衣を著く。自称して日く、一、二百年祖師の道すたる、故に一、二百年このかた我が如くなる知識未だ出でずと。諸方悉く恐れおののく。尋常に日く、我れ十九歳より以来、発心行脚するに有道の人なし。諸方の席主、多くは只官客と相見し、僧堂裏都て不管なり。
常に日く、仏法は各自理会すべし。是の如く道うて衆をこしらうことなし。今大刹の主たる、なを是くの如く胸襟無事なりを以て道と思い、曾て参禅を要せず。何の仏法かあらん。若し彼がいうが如くあらば、何ぞ尋常訪道の老古錐あらんや。笑いぬべし、祖師の道夢にだも見ざるあり。趙提挙、州府に就いて上堂を請せしに、一句道得なかりし故に、一万丁の銀子、受けることなくして返しき。一句道得なき時、他の供養を受けざるのもに非ず、名利をも受けざるなり。故に国王大臣に親近せず、諸方の雲水の人事すら受けず。道徳実に人に群せず。故に道家の流れの長者に道昇というあり。徒衆五人誓いて師の会に参ず。我れ祖師の道を参得せずんば一生故郷に還らじ、師志を随喜し、改めずして入室を許す。列には僧の次に著かしむ。又善如と云いしは、我れ一生師の会にありて、卒に南に向かいて一歩を運ばじと。志を運び師の会を離れざる多し。普園頭といいしは曾て文字を知らず、六十余に初めて発心す。然かれども師、低細にこしらえて依て卒に祖道を明きらめ、園頭たりと雖も、おりおり奇言妙句を吐く。上堂に日く、諸方の長老普園頭に及ばずと。実に有道の会には、有道の人多く道心の人多し。尋常ただ人をして打坐を勧む。常に云う、焼香礼拝念仏看経を用いず、祇管に打坐せよと示して、只打坐せしむるのみなり。常に日く、参禅は道心ある是れ初めなり。実に設い一知半解ありとも、道心なからん類所解を保持せず。卒に邪見に堕在し磊苴放逸ならん。付仏法の外道たるべし。故に諸仁者、第一道心の事を忘れず、一々に心を至らしめ、実を専らにして当世に群せず、進んで古風を学すべし。
はいまったくその通りです。如今またかくの如し、一箇半箇の道に勤しんで下さい、他に道うことないです。

道風遠く扇ひで金剛おりも堅し、匝地之が為に所持し来る。

道風金剛たとい遠くて遠しといえども、世にこれが他ないんです、一人きりで死のうが、なんにもならずとも、なにおのれけし粒の如くというより、内に向かってとやこうはないんです、たとい世のため人の為でもいい、外に向かって開きぱなし、ついに呑却せられるんです、するとこれを継ぐまた一箇半箇。

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# by tozanji | 2006-01-14 00:00 | 伝光録

第四十九章

第四十九章

第四十九祖雪ちょう鑑禅師、宗かく天童に主たりし時、一日上堂、挙す、世尊に密語有り、迦葉覆蔵せず。師聞きて頓に玄旨を悟り、列に在りて涙を流し、覚えず失言して日く、吾輩什麼としてか従来せず。かく上堂罷り、師を呼びて問ひて日く、汝法堂に在りて何すれど涙を流すや。師日く、世尊に密語有り、迦葉覆蔵せず。かく許可して日く、何ぞ雲居の懸記に非ざらんや。


師諱は智鑑、児たりし時、母ために師の手の瘍を洗いて問いて日く、これなんぞ。対えて日く、我が手は仏手に似たりと。長じて父母を失う。長盧清了に依る、時に宗かく首座たり、すなわち之を器とす。後に象山に逃れて百怪惑はすこと能はず、深夜に開悟して証を延寿(法眼宗三祖永明延寿)に求む。しかしてまたかく和尚に参ず。宗かく天童に住し、師をして書記に充てしむ。かく一日さきの因縁を挙す。ねはん経如来性品第四の二、爾時迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊仏所説の如き、諸仏世尊に密語ありと。是の義然らず、何を以ての故に。諸仏世尊唯密語ありて密蔵あることなし。譬えば幻主の機関木人の如し。人屈伸伏仰するを覩見すと雖も、内に之をして然らしむるものあるを知ること莫し。仏法は爾らず。悉く衆生をして咸く知見することを得せしめ、如何ぞまさに諸仏世尊に秘密蔵ありと云うべき。仏迦葉を讃して善哉善哉善男子汝が所言の如し。如来に実に秘密の蔵なし。何を以ての故に、秋の満月の空に処して顯露に、清浄にして翳なきが如く、人皆覩見す。如来の言もまた是の如し。開発顯露にして清浄無翳なり。愚人解せずして之を秘蔵と謂う。智者は了達して即ち蔵と名けず。
ぼう蟹の七足八足するが如しと、蟹を茹でると七足八足、意識なくかってにするさま、どうですかこれ、幻主悟らぬ人は屈伸伏仰を知ってするんですか、知らないでするんですか、悟った人は知らないでするんですか、知ってするんですか、あっはっはこれわしの密語です、よってもってよく確かめて下さい。何ぞ雲居の懸記とは、雲居道膺祖が雪ちょう智鑑の出現を予言したこと。師聞いて頓悟す、涙を流し、我輩何としてか従来せず、何ゆえかありどうしてこうあるかわからんのです、呼んで問うて日く、何すれぞ涙を流すや。師日く、世尊に密語あり、迦葉覆蔵せず。これ涙流れるです。

謂つべし金剛堅密の身、其身空廓明明なるかな。

金剛石ダイヤモンドも崩壊します、では何が壊れない、なんのかんのと有心の人云うんでしょう、有心であるかぎり有るんです、不思議ですねえ、無心は無いんです、すなわち無いものは壊れっこないんです、これ仏教、心が無いと知って救われるんです、殺し文句やお為ごかしじゃないんですよ、これっきゃない他なし。

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# by tozanji | 2006-01-13 00:00 | 伝光録

第四十八章

第四十八章

第四十八祖天童かく(王に玉)禅師久しく悟空の侍者となる。一日悟空聞きて日く、汝近日見処如何。師日く、吾又恁麼なりと道はんと要す。空日く、未在、更に道へ。師日く、如何が未だしや。悟空日く、汝道ひ来ること未だしと道はず、未だ向上の事に通ぜず。師日く、向上の事道ひ得たり。空日く、如何なるか向上の事。師日く、設ひ向上の事道ひ得ると雖も、和尚の為に挙示すること能はず。空日く、実に汝未だ道ひ得ず。師日く、伏して願はくは和尚、道取せよ。空日く、汝吾に問へ、道はん。師日く、如何なるか是れ向上の事。空日く、吾又不恁麼なりと道はんと要す。師聞きて開悟す。空即ち印証す。


師諱は宗かく、ひさしく悟空の侍者となり、昼参夜参、横参竪参す。しかれども猶徒らならざる所あり。空問ひて日く、汝近日見処如何。師日く、吾又恁麼なりと道はんと要す、空日く、未在更に道へ。恁麼なり、かくの如くと道はんと要す、かくの如く、自分というものが虚空に消える、まったく無いんです、無いというものを無いと云えるか、そりゃ云えない道理で、又恁麼なりと道はんことを要すとはこれです。空日く、未在更に道へ、そりゃ言下に、そんなんじゃ駄目だって云います、無心心がない、無身体がないんですが、これ何段階もある、とかく向上の事どこまで行ってもという、どうもそう云っているものが吹っ切れるんですよ。おおっとなんにもなくなる=自分を問題にしないんです。これどう云い繕ったところで、なんにもないものには丸見えで、たといかくの如く、問答同じが是は是、不是は不是なんです。でも空日く、吾又不恁麼なりと道はんと要す、は効いています。自分終わるとまったく元の木阿弥なんです。恁麼も不恁麼もないんですよ、吾は得た、何を得たというてんからなしに、底抜けの自信としか云いようにない、信不信に関わらずこうあるきりなんです。即ちこれを得て、印証するんです。

宛かも上下の楔の如くに相似たり、抑ふれども入らず抜けども出でず。

もとないものをあると云うのと無いというのと、たしかにあたかも上下のくいの如く相似たりですか、でも抑ふれども入らず抜けども出でずとは、元の木阿弥まったくなくなるんです、くさびとかくいとか要らない。

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# by tozanji | 2006-01-12 00:00 | 伝光録

第四十七章

第四十七章

第四十七祖悟空禅師丹霞に参ず。霞問ふ、如何なるか是れ空劫以前の自己。師応えんと欲す。霞日く、汝さわがしきこと在り、且く去れ。一日鉢盂峰に登り、豁然として契悟す。


師諱は清了、悟空は禅師号なり。その母赤ん坊を抱いて寺に入り、仏を見て喜び眉睫を動かす。師十八にして法華を講ず。得度して成都の大慈に往き、経論を習い大意を領ず。丹霞の室を叩く。霞問う、如何なるか是れ空劫以前の自己、乃至豁然として契悟す。ただちに帰りて霞に侍立す。霞一掌して日く、まさに謂えり爾有ることを知ると。師欣然として之を拝す。翌日霞上堂して日く、日孤峰を照らして翠に、月溪水に臨んで寒し、祖師玄妙の訣、寸心に向かいて安んずる莫れ。即ち下坐。師直に前んで日く、今日のしん坐更に某甲を瞞ずることを得ず。霞日く、爾試みに我が今日のしん座を挙し来り看よ。師良久す。霞日く、将さに謂へり、爾瞥地と。師便ち出ず。遍歴して長蘆山に至り、その跡を継ぐ。
如何なるかこれ空劫以前の自己、なんじさわがしと、どうですかこれ、空劫以前の自己といったら、空劫以前に帰って下さい、自分をとやこう云っていたら間に合わないですよ、たとい会に誇り悟に豊かにしても、そういうものと見做すなにかしらあったら騒がしいんです、安心の処がないんです。ところが丹霞子淳の偈は、日は上り月下りして祖師玄妙の訣、寸心に向かいて安んずること莫れとあります、これ我が意を得たりで、更にそれがしを瞞ずることを得ずと云う、どうですか、相手に肯定されたら、他に瞞ぜられますか、では道うてみよと、丹霞和尚、師良久す、まさに謂へり、そうかい瞥地ちらっとは見たか、というんです。是という、不是という、さあどうですか、余後の問答はないんです、辞し去って唯一人の天下です、これわかりますか、たとい大悟徹底の人も、まったくわからんですよ。よくよく看取し去って下さい。

古澗寒泉人疑はず、浅深未だ客の通じ来ることを聴さず。

古澗は谷の水、師後に出世して上堂日く、我れ先師の一掌下に於て技倆ともに尽きて、箇の開口の処を覓むれども得べからず。いま還て恁麼の快活不徹底の漢ありや。若し鉄をふくみ鞍を負うことなくんば、各自に便りを著けよ。実にそれ祖師の相見する所、劫前に歩を運び、早く本地の風光を顯はし来る。若し未だ此田地を看見し得ずんば、千万年の間坐じて言うことなく、兀兀として枯木の如く死灰の如くなりとも、是れ何の用ぞ。しかも空劫以前と云うを聞きて、人々あやまりて思うことあり。いわゆる自もなく他もなく、前もなく後もなく、呼んで一とも云うべからず、二ともいうべからず、同とも弁ぜじ異とも云はじ。是の如く商量計度して、一言も道いえば早く違いぬと思い、一念も返せば即ち背くべしと思うて、妄りに枯鬼死底を守り死人の如くなるあり。或いは何事として相違ことなし、山と説くも得べし、河と説くも得べし、我と説くも得べし、他と説くも得べし。また日く、山と道うも山に非ず、河と道うも河のあらず。唯是れ山なり、唯是れ河なり。かくの如く云う、これ何の所要ぞ。
悉く皆邪路に趣く。或いは有相に執着し、或いは落空亡見に同じくし来るなり。此田地あに有無に落つべけんや。故に汝が舌を挿さむ所なく、汝が慮りを廻らす所なし。且つ天に依らず地に依らず、前後に依らず、脚下踏む所なくして眼を著けて見よ。必ず少分相応の所あらん。又日く云々と。

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# by tozanji | 2006-01-11 00:00 | 伝光録

第四十六章

第四十六章

第四十六祖丹霞淳禅師芙蓉に問ふて日く、如何なるか是れ、従上の諸聖の相授底の一句。蓉日く、喚んで一句と作し来たれば、幾莫か宗風を埋没せん。師言下に於て大悟す。


師諱は子淳、弱冠二十歳にして出家し、芙蓉の室の徹証す。初め雪峰象骨山に住し、後に丹霞に住す。如何なるかこれ従上諸聖相授底の一句。釈尊明星一見より、迦葉拈華微笑、阿難倒折刹竿著、滴滴相続して今にいたる、これ寸分も別なく、相違なく、今この伝光録に全い見るように、諸聖まったく違わずです。これが相授底の一句、もしやそんなものがあるはずもなく、もしや有ると思えば、なにがなしそれをどうしようという、四六時中ていぜいも、ついに離れず自由の分なし、坐るという苦痛がついて回るんですか、あるいはいい悪いの我田引水、時には蜜を吸う如く、時には無味乾燥、はたしておれはと顧みるんでしょう、末期の一句が欲しいとなるんです、これを以て問う、喚んで一句となし来たれば、幾ばくか宗風を埋没せん、そう云っている限りは、そう云っているものがあるのさってわけです、師言下に大悟す。
みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけりよくこれを保任せよという、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよきですか、いえさどこまで行こうが修行の上の修行。

清風数しば匝り縱い地を揺らすも、誰か把り将ち来りて汝が為に看せしめん。
はいまさにこれ参禅の要決です、いいことしいの頭なぜなぜは一神教ですよ、たとい箇の標準入り難し行じといえど、オ-ムや立正安国論のような、偏狭きちがい或いは、信ずれば救われる底の、独善じゃないんです。ただこれ、ただの真っ平ら、他に人間の智慧はなしと知る、大丈夫これ、だれかとりもちて汝が為に見せしめんです、即ちそのように坐って下さい。

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# by tozanji | 2006-01-10 00:00 | 伝光録

第四十五章

第四十五章

第四十五祖芙蓉山道楷禅師投子和尚に参ず、乃ち問ふ、仏祖の言句は家常の茶飯の如し、之を離れて外に為人の処有りや、也た無しや。青日く、汝道へ、寰中の天子の勅、還りて堯舜兎湯を仮るや、也た無しや。師進語せんと欲す。青払子を以て師の口をうって日く、汝意を起こし来たる、早く三十棒の分有り。
師即ち開悟す。


師幼より閑静を喜んで伊陽山に隠る。後に京師に遊んで台術寺に籍名す。法華を試みて得度す。投子に海会寺に謁して、すなわち問う、仏祖の言句は、乃至師開悟し再拝して便ち行く。子日く、且来闍黎。師顧みず。子日く、汝不疑の地に至る也。師即ち手を以て耳を掩う。後に典座となる。子日く、厨務勾当易からず、師日く、不敢。子日く、粥を煮るか飯を蒸すか。人工は淘米著火、行者は煮粥蒸飯。子日く、汝甚麼をか作す。師日く、和尚慈悲他を放閑し去らしめよ。一日投子に侍して菜園に遊ぶ。子柱杖を度して師に与う。師接得して便ち随行す。子日く、理まさに恁麼なるべし。師日く、和尚の為に鞋を提げ杖をかかぐ、也た分外と為さず。子日く、同行の在る有り。師日く、那一人は教えを受けず。子休し去る。晩び至って師に問い、早来の説話未だ尽くさず。師日く、請う和尚挙せよ。子日く、卯には日を生じ戌には月を生ず。師即ち点灯し来たる。子日く、汝上来下去総に徒然ならず。師日く、和尚の左右に在れば理まさに此の如くなるべし。子日く、奴児婢子誰が家の屋裏にか無からん。師日く、和尚年尊他を欠かば不可なり。子日く、恁麼に慇懃なることを得たり。師日く、恩を報ずるに分ありと。
これ芙蓉道楷和尚投子義青の老婆親切が通じたんであろうか、因みに猿芝居嘘ばっかりの宗門が、立職三旬安居の申請に、表をかかげて芙蓉楷祖の如くせよといって来る、なに一夜漬けの他だれもしやせん、ばかったい話だが、芙蓉楷祖天井粥という、米は同じ量で人数の増えただけ水を足す、粥に天井が映ったから云う。たしかに仏祖の言句は家常の茶飯の如しという、これを離れてほかに為人の処有りや、かくのごとく信じ行じ来たって、投子の面前に投げ出すんです、煮ようが焼こうがってわけです、はたしてそうか、寰中は天子の勅、四皇五帝に習う、持ち出すことはないぞという、他の標準あってはかたくななだけです、むろんそりゃ当然のこったという、云い分です、そいつの口を掩い、三十棒です、師すなわち開悟す。
奴児婢たが家の屋裏にか無からん、いいえおまえの中にだってあるはずだというんです、卑しいもの卑屈あいまいなもの、うしろめたくだから悪いという、そっくりそのまんま恥知らず、わっはっはわしはそっちの方が多いですか、でもこれ削ったらかたわもんですよ、差別用語ばっかり、わし差別されてるでさ。生活とは何か、明日はないんです、死んだやつに生活はない、という上の芙蓉楷祖の如くせよなんです。

紅粉施さざるも醜露れ難し、自ら愛す蛍明玉骨の装い。

はい時時に勤めて払拭すること、肝に銘じまして。

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# by tozanji | 2006-01-09 00:00 | 伝光録

第四十四章

第四十四章

第四十四祖投子和尚円鑑に参ず、鑑、外道仏に問ふ、有言を問はず、無言を問はざるの因縁を看せしむ。三載を経て、一日問ひて日く、汝話頭を記得すや、試みに挙せよ看ん。師応へんと擬す、鑑其の口を掩う。師了然として開悟す。


師諱は義青、七齢にして潁異、出家し経を試みて、十五にして得度す、百法論を習う、嘆じて日く、三祇道遠し、自ら困ずるとも何の益ぞ。乃ち洛に入って華厳を聴く。義珠を貫くが如し、諸林菩薩の偈を読み、即心自性と云うに至って、猛省して日く、法は文字を離る、寧ろ講ずべけんや、即ち捨てて宗席に遊ぶ。時に円鑑大師(浮山法遠、太陽の嗣)会聖巌に居す。一夕青色の鷹を養うと夢見て、師来たる。外問仏の話を看せしむ、乃至師了然として開悟し、遂に礼拝す。鑑日く、汝玄機を妙悟するや。師日く、設とい有りとも也た須らく吐却すべし。時に資侍者、傍らに在りて日く、青華巌、今日病に汗を得るが如し。師回顧して日く、狗口を合取せよ。若し更にとうとうせば我れすなわち嘔せん。此れよりまた三年をへて、鑑、時に洞下の宗旨を出して之を示す。悉く妙契す。付するに太陽の頂相、皮履布(皮の草履)直とつ(大衣)を以てし、日く、吾に代わりて其宗風を継ぎ、久しく此に滞まること無れ、よく宜しく護持すべし。偈を書して送りて日く、須弥太虚に立ち、日月輔けて転ず。群峰漸く他により、白雲方に改変す。少林風起こり叢がり、曹溪洞簾巻く。金鳳龍巣に宿し、宸苔豈に車碾せんや。
青華厳というあだなであった、華厳経を聴いて義珠を貫くが如し、明解手に取るようであったんでしょう、しかも即心自性というに至って猛省して日く、だから-ゆえにの世界じゃないっていうんです、法は文字を離る、講義するための学問、愚人のしがみつくそれを、なんにもならんとて捨てる、そりゃこの心なけりゃ、人間なんのためにもならんです、よって青鷹となって円鑑を訪う、外道仏に問う、有言を云わず無言を云わず、汝作麼生、さあどうじゃというんです、これを云える外道も珍中の珍ですか、ほんとうに答えがわからんで聞いたんなら正解、答えをもって聞く、つまりこれを外道と云う、お釈迦さまは端然坐すんです、これを見て外道、大慈大悲愍衆生というて去る、文殊菩薩が何ゆえに去ると聞くと、世の良馬の鞭影を見て行くと云われた。
ですからこれを得て下さいというんです、諦観法王法、法王法如是と、猿芝居の銭かねしてないで、これなくば仏とは云われぬ、滴滴相続底の引導も渡しえない、すると一から十まで嘘ばっかりの坊主どもです、世の中横滑りのかたり、衆門というおんぼろ伽藍堂です、がらがら崩れ去る。たといなにやったって駄目です。三載をへて、汝話頭を記憶すや、どうじゃと聞く、順孰するを見る、皮一枚どっかつながっていた、云わんと擬する口を掩う、師了然として大悟す。

嵯峨たる万仞鳥通じ難し、剣刃軽氷誰か履践せん。

嵯峨たり万仞は早く自分のほうにあるんです、鳥通じ難師と、あるいは毎日切磋琢磨、あるとき一皮むける、ふわっとなんにもないんです、ただこうあるっきりです、人が参じ来るのに、なにいうてもとなんにもないのになにをあせくと、はいといってはどう参じても届かない、嵯峨万仞鳥通難、でもってあるいは問答しだれかれやるんでしょう、剣刃軽氷上を行くんです、ちらりしくじったら、せっかくの大法をふいですか、いいえ老師なんぞ悟ったといえば、おうそうかてなもんです、おれはこうしただからというと、是是、なあに嘘つきゃ自分で転ぶてなもんです、これ剣刃軽氷上。

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# by tozanji | 2006-01-08 00:00 | 伝光録

第四十三章

第四十三章

第四十三祖太陽明安心大師因みに梁山和尚に問ふ、如何なるか是れ無相の道場。山観音像を指して日く、這箇は是れ呉処士の画なり。師進語せんと擬す。
山急に索めて日く、這箇は是れ有相底、那箇か是れ無相底。師言下に於て省有り。


師諱は警玄、十九にして大僧となり円覚了義を聞く、遂に遊方して初め梁山に到りて問ふ、如何が是れ無相の道場。乃至省悟あり。便ち礼拝して立つ。山日く、何ぞ一句を道取せざる。師日く、道ふことは即ち辞せず、恐らくは紙筆に上らん。山笑いて日く、此語碑に上せ去ることあらん。師偈を献じて日く、我れ昔初機学道に迷い、山水千山見知を覓む。今を明め古を弁じて終いに会し難く、直ちに無心と説くも転た更に疑う。師の秦時の鏡を点出するを蒙り、父母未生の時を照らし見る。如今覚了して何の得る所ぞ、夜烏鶏を放ちて雪を帯びて飛ぶ。山日く、洞山の宗よるべしと。山没して太陽に到り、洞山一宗盛んに世に興る。師神観奇異威重あり、児稚の時より日にただ一食し、自ら先徳付授の重きを以て足しきみを越えず。脇席に至らず、年八十二に至って猶かくの如し。対にしん座して衆を辞し終焉す。
呉処士というのは唐代の画聖、観音さまの絵を指さして、師進語せんと擬す、だからどうなんだ、たとい画聖の絵だろうが、迷あり悟あり、黒白あいまってたとい山水千山の見知云々というんでしょう、すべてをぶっつける、即ち一箇そのものにならんけりゃ、聞こうにも聞けない、転た更に疑うんです、そいつを秦時の鏡、これまあなんか来歴あるんでしょう、秦時のたくらくさん馬鹿ですれてる、虎の欠けたるが如くです、そいつを梁山の宝鏡三味が見事に映す、這箇はこれ有相底、那箇かこれ無相底、ついにぶち破る、脱するんです、如今覚了しなんの得る所ぞ、夜烏鶏まっくろい鳥が雪を帯びて飛ぶ、黒漆のこんろん夜に走るんです。おうと云えばさらに宇宙ぜんたいです。道えば有相になる、紙筆に上らんという、わずかにひっかかる、後遺症とまではいかんですが、あっはっは紙筆どころか石碑になるぞといって払拭する。まあそういったこってす、もう一つの大切は、洞山によるべしという、曹洞宗この我が宗です、通身帰依によってのみ成立するんです。これ独立独歩。

円鑑高く懸けて明らかに映徹す、丹かく(蠖の虫でなく舟)美を尽くして画けども成らず。

まあこれ梁山から伝わった宝鏡三味ですか、丹かく、朱けのそほ舟じゃなくって赤い飾り舟、美を尽くすわけです、描けども成らず、わしは歌人であって、万葉を復活させたんですが、だれも知らん顔している、あっはっは世間のほうが間違いで、どこにも歌なんかない、ありゃ字面だけの伸び切ったうどんだってな、でもさそれはともかく、どんなにいい歌作ったろうが、風景そのもの、生活感情にはまったく及ばない、歌を作るは別ものってこってす、そいつもまた面白いからってだけの、一木一草空の雲もまあそれっきりで死んじまうほどの、いえ何万生もの人生を超えって、どう云ったってどうにも届かぬ、わしが雲水よりもよう坐るのはこれ、実際とはこれ。何ものも断じないんです、美を尽くすだのものを成すだの、けちなこと云わない。

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# by tozanji | 2006-01-07 00:00 | 伝光録

第四十二章

第四十二章

第四十二祖梁山和尚後の同安に参侍す。安問ふて日く、如何なるか是れ衲衣下の事。師無対。安日く、学仏、未だ這箇の田地に到らざるが最も苦なり、汝我れに問へ道はん。」師問ふ。如何なるか是れ衲衣下の事。安日く、密。師乃ち大悟す。


師諱は縁観、後の同安に執侍すること四歳、衣鉢侍者に充つ。同安有る時上堂、早参、衲法衣を掛くべし。時到りて師衲法衣を捧ぐ。同安、法衣を取る次いで問ひて日く、如何が是れ衲衣下の事。師無対。乃至大悟す。礼拝して感涙に衣を湿ほす。安日く、汝既に大悟す。又道ひ得るや。師日く、縁観即ち道ひ得ん。安日く、如何が是れ衲衣下の事。師日く、密。安示して日く、密有り密有り。
師これより投機多く密有の言あり、学人ありて衲衣下の事を問ふこと多し。如何が是れ衲衣下の事。師日く、衆聖も顕すこと莫し。家賊防ぎ難き時如何。師日く、識得すればあだを為さず。識得して後如何。師日く、無生国裏に貶向せん。是れ他の安心立命の処なること莫しや。師日く、死水に龍を蔵さず。如何が是れ活水龍。師日く、波を興して浪を作さず。忽然として傾秋倒岳の時如何。師下座把住して日く、老僧が袈裟角を湿却せしむること勿れ。また有る時問ふ、如何が是れ学人の自己。師日く、寰中は天子塞外は将軍。是くの如く他の為にす、悉く是れ密有を呈示すと。
学仏未だ這箇の田地に到らざる、最も苦なりと、まことにこれ実なるかなです、いずれの地獄もっとも苦なりと問うに、洞山示して日く、学人未だ仏に到らざる、地獄のうちもっとも苦なりと。どうしても別の標準です、こうあるべきどうあるべきのたがが外れて、感涙に衣をうるおす、標準が自分なんです、すると省みる自分がない、密ですよ、密有り密有り、是是、他にはまったくないんです。衆聖も顕すことなし、だれがなんといって示すこともできないんです、だからといって妄想絶無なんていう、外野のあげつらうのとは違う、念起念滅する、家賊防ぎ難き時如何、防ごうとするに及んで収拾がつかんですか、識得すればあだをなさず、目を向けりゃないんです、そんな処から始めりゃいい.もとまっただ中です。無生国裏に貶向す、そのまんま手放しなんですよ、これが他の人にはできないんです、どうしても括弧とか紐でくくりたがる、すると死水に龍を蔵さず、死体いなっちまうってこってす、如何が是れ活水龍、ぶんなぐってやりゃいいところを、親切に示す、無理無謀がないんです、天子は帷中にすべてを見そなわせ、塞外に戦うのは将軍です、もとこれっきゃないって、あべこべしないんですよ。

水清うして徹底深沈たる処、琢磨を待たずして自ずから螢明なり。

わずかに自分というたがが外れるとかくの如くです、切磋琢磨みがいて修行してどうのこうのじゃない、そんなもののまったく届かぬ、ぼっかあずんぼらけ。密有り、ものみなの役に立ちますよ。

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# by tozanji | 2006-01-06 00:00 | 伝光録

第四十一章

第四十一章

第四十一祖後の同安大師、前の同安に参じて日く、古人日く、世人の愛する処我れ愛せずと、未審如何なるか是れ和尚の愛する処。同安日く、既に恁麼なることを得たり。師言下に大悟す。


師諱は観志、その行状委しく記録せず、先同安まさに示寂せんとす、上堂日く、多子塔前に宗子秀いず、五老峰前の事若何んと。是の如く三たび挙するに無対、師出でて日く、夜明簾外排班して立ち、万里歌謡して太平を道ふ。同安日く、須らく是れ驢漢にして得べし。しかしより同安に住し、後同安と号す。
世人の愛する処我れ愛せずと、みなまた出家するんです、世の中何不自由なくは、お釈迦さまですが、せっかく美しい后と子を捨てて出家する、歓喜という名の阿難尊者は、あんまり大もてでもって、悟るのが遅かったという、ほんとう本来を知るには、世の中そのまんまでは、見えるはずのものも見えない、きっとうまく行かんのです。後の同安大師も必ずこの轍であった、そうして出家して確かめに行く、大小の悟はあったんでしょう、きれいさっぱり断ずる、あるいは愛欲を断ち切ることが、どうも奇妙なことに見えてくる、たとい行事綿密も、あれこれこうあるっきりだ、世人の愛するところ我れ愛せずと、たといかつて大見栄を切ったとて、いぶかし如何なるかこれ和尚の愛するところ。同安日く、すでに恁麼なることを得たり、師言下に大悟す。
わかりますかこれ、すでに得たんです、自分というとやこうのまんま失せる、世界ぜんたい掌する、いやさそういう能書きのいらない世界です。
大手を広げてこうなんです、一喝するも同じこと。
わかりますかこれ、蚊子の鉄牛を咬むに似たりじゃなけって、そうかって大悟して下さい、余すところも欠けるところもないんです、元の木阿弥。

心月眼華光色好し、劫外に放開して誰有りてか翫そばん。

多子塔は、多子塔前宗子秀でという、迦葉尊者がお釈迦さんに相見した所です、鬚髪速やかに落ち、衣法共に付すという、五老峰は江西省星子県の盧山中にあり、太祖慧可大師の因みにまさにこれ、法を継ぐ者出でよというに、誰も出でず、ついに後の同安大師出でて、夜明簾外、天子の座を覆う水晶のすだれだそうです、赤ん坊は王様、自分という架空請求を去る、宇宙の中心です、すだれの外はどうなっている、明月如昼ですか、臣民家来並び立って、恭順を示
すんですか、共産主義の無理矢理拍手じゃない、思想宗教のだから故にじゃない、万里歌謡して太平の御代です、鼓腹げきじょう、はてなどういう字だっけか、だれも王様のいらっしゃることなぞ知らんという、たらふく食って酒飲んで歌っている、ふ-ん須らく是れ盧漢にして得べし、どこの馬鹿だあっていうんです、そうして同安を継ぐわけです。心月眼華光色好、眼華という妄想世間知ですよ、そいつそのまんまそっくり坐ってごらんなさい、身心脱落してかすっともかすらない、浄羅羅心月見開くんです、劫外に放開して誰有りてか翫そばん、手のつけようがないんです。

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# by tozanji | 2006-01-05 00:00 | 伝光録