第三十五則 洛浦伏膺

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 衆に示して云く、迅機捷弁外道天魔を折衝し、逸格超宗曲げて上根利智の為にす。
忽ち箇の一棒に打てども頭を廻らだざる底の漢に遇ふ時如何。

挙す、洛浦夾山に参ず、礼拝せずして面に当って立つ。山云く、鶏鳳巣に棲む、其の同類に非ず出で去れ。浦云く、遠きより風に趨る、乞ふ師一接。山云く、目前に闍梨無く此間に老僧無し。浦便ち喝す。山云く、住みね住みね且らく草草怱怱たること莫れ。雲月是れ同じく溪山各異なり、天下人の舌頭を裁断することは即ち無きにあらず、争か無舌人をして解語せしめん。浦無語。山便ち打つ。浦此より伏膺す。

 洛浦山元安禅師、夾山善会の嗣、かっさんと読む薬山下二世、礼拝して聞法のありようは接心の独参、小参など今にそっくり残るんですが、形式あっておよそ仏法のぶの字もないのは、うるさったいだけでマンガにもならんですか、世間一般も形式だけの、精進料理に史跡廻りなど、だれも真面目に考えぬのは、応えられる僧がいないのと、真面目真っ正面に問うことを忘れた日本人ですか、人間の面していないのばっかりじゃ、そりゃこっちもという理屈で、もって騒々しいかぎりは、犬や猫に入れ揚げるしかない、なんといういじましさ。
 外道とは仏教以外を云うんですが、そりゃ仏教の独善かというと、他の一神教と同断じゃないです、仏教以外は外道なんです。本来本当じゃない、人をたぶらかし迷わせるんです。禅天魔といったのは日蓮ですか、おもしろいんですよ、だれも自分ありゃ自分のことしか云えない、他を誹謗する=自分を誹謗です。たとい仏祖の道であっても、ちらとも自分あれば、たしかに外道天魔、云うことは同じあるいな本来本当の人より、弁舌達者喝すれば古今未曾有の風景です、こいつを蚊食うほどもなく、夾山の如きは、住、やめねやみね、止せ止せっていうんです、しばらく草草怱怱たることなかれ、実にこれです、天下人の舌頭を切断することはなきにしもあらず、
そりゃ云うことは云いうる、これね、礼拝して問うところを、突っ立つ、一目瞭然というより、弱ったねこの人という、なんとかしてやろうと思う、そいつがなかなか、なんせ自信満々、云うことは心得ている、ところが常識なし、ものをぴったりということができない。「だからおれはいいんだ」というしかない、エガちゃんという人がこうだったし、トウテツさんという人が、なんにもないを「なんにもしない」と履き違える。自覚を待つ以外にないんですが、自覚のチャンスは目の当たりチャンスならざるはなしなんですが、就中夾山のようには行かない、月は同じぞ山あいへなれという
歌の文句も、無舌人の解語も、ついに伏膺、身に体して忘れえぬという、急転直下させるには、ちらとも自分あっちゃそりゃだめです。

頌に云く、頭を揺かし尾をふるう赤梢の鱗、徹底無依転身を解す、舌頭を裁断して饒ひ術有るも、鼻孔を曳廻して妙に神に通ぜしむ。夜明簾外風月昼の如し、枯木巌前花卉常に春なり。無舌人無舌人、正令全提一句親し。寰中に独歩して明了了。任従天下楽しんで欣欣ることを。

 赤梢の鱗しっぽの赤い鯉ですってさ、洛浦騒々しく一物不将来の時如何です、ないと云いながらあるぞ、あるぞやるんです、どうしてもこういうことあって、ついに転身の時を迎える。劇的といえばまさにこの則、いえあるいはたいていの則これです。
なんていうおれはと通身もってす、坐布を抛って三尺穴を穿つ。いえ我が物底無しですか。ようやく仏教の緒に就くんです。自ずからに知る以外にないですが、なんのかんの云ってるやつを、妙をもって、神をもって接するただの人、無舌人ですか山水長口舌、絶学無為の閑道人です。大ひまの開いた人が欲しいんです。楽しんで坐りなさいと老師はいった、そりゃまっぱじめからそういうわけですが、本来ほんとうの楽しさをを、何十年ようやくこれが緒に就くということあります。夜明簾外風月昼の如く、枯木巌前花卉常に春、卉は草に同じ、春風駘蕩も妄想迷いの延長じゃ、そりゃさっぱりおもしろくもない、いったん切って楽しいんです。いったん切る、自分
を観察しない、即ち正令全提です、いいですか、一生正令全提一句親しですよ、間違っちゃいかんです、沙婆流には推し量れんです、寰中は天子の幾内、直轄の地を云う、外れることないんです、大手を振って歩いて下さい、明了了、任せ従い天下欣欣アッハッハまさにかくの如く、ちっと頌が長いですが、文句云わんとこ。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-28 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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