第四十二則 南陽浄瓶

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 衆に示して云く、鉢を洗ひ瓶を添ふ、尽く是れ法門仏事、柴を般ひ水を運ぶ、妙用の神通に非ざることなし。甚麼としてか放光動地を解せざる。

挙す、僧南陽の忠国師に問ふ、如何なるか是れ本身の盧舎那。国師云く、我が与めに浄瓶を過し来たれ。僧浄瓶を将って到る。国師云く、却って旧処に安ぜよ。僧復た問ふ、如何なるか是れ本身の盧舎那。国師云く、古仏過去すること久し。

 南陽慧忠国師、六祖大鑑慧能の嗣、鉢は鉢の子鉄鉢応量器、お釈迦さんの頭蓋をかたどったと云われ、地に落とせば即刻下山と、飯を喫する器。浄瓶は水を容れる、インドのむかしからの持物であった、水の国日本には馴染まない。趙州鉢盂を洗い去れ、瓶に残月を汲んで帰れという、とくに喚起せずとも、ものみな、行ない起居すべてが仏教です、一一にこうあって他なし。外道のわからんのは、なにかしら別にあると思っている、共産党が、アッハッハまだ共産党ってのもアホらしいんですか、無だ、ないなんて云ってないで、もっと大切なものをという。大切なものほかになしを知る、これが大変なんですか、たとい学人もまたこれです。神様仏様形而上学、虎の威を仮る狐。よりよいこと、頼りがいっていうのは仏教にはないです。ただの現実です。実にこれを知る、また大変です。死んだら戒名はいらん、なんにもつけないでくれと共産党が云う、いいようで、そうではないんです、一神教のなれのはて、キムジョンルを生むしかない、浅薄の故にですが。
 思想観念のかんしけつ、哀れ本来事を知らずに死ぬ、この僧五十歩百歩です。
如何なるか是れ、本身の盧舎那、毘盧舎那仏大仏さんですか、盧舎那遍一切処、光明遍照という、即ちその中にありながらこれを問う、忠国師知らしめる為に、浄瓶をもってこいと云った、もって来てまだ気づかない、ではもとの処へ返しておけという、ほかになんにもないことを知らん。無とはこれです、宇宙万物のよって立つところです。
花無心にしてという、思想分別の根拠じゃないです、主義という愚問ではなく、平和だ戦争という空騒ぎじゃないです。僧また問う本身の盧舎那如何、古仏過去すること久し、花も鳥も達磨さんもお釈迦さんも説くこと久しく、おまえの問ふに会って我もまたかくの如し。

頌に云く、鳥の空を行く、魚の水に在る、江湖相ひ忘れ、雲天に志を得たり。疑心一糸、対面千里、恩を知り恩を報ず、人間幾幾ぞ。

 鳥の空を行く魚の水にあり江湖あい忘れと、ものみなまたかくの如し、これ一般の人自然に親しむ、酒はうまいというのと違うんです、魚行いて魚の如し水自ずから澄む、これを得るのに全生涯抛つんです、自分というちらともあれば疑心暗鬼です、対面千里自他の区別になってしまうです。無という即ち架空の我なしを知る、就中どこまで行ってもということあります。ほんとうになくなって坐って下さい、心意識のあるなしに関わらず、まさにもって他なし、筆舌に尽くせぬ正令全提、たとい百歳の中一瞬たりとも償って余りあるんです。恩を知り恩を報ずることは、せっかくこれを知る、正師に会へるは浜の真砂の一握にも及かぬという、大恩これを報ずるに、ま
たいくばくぞ。どうかこれを得て下さい。人類破れ惚けようが絶滅もこれあれば是。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-12 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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