第五十二則 曹山法身

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 衆に示して云く、諸の有智の者は譬喩を以て解することを得、若し、比することを得ず、類して齊うし難き処に到らば如何ぞ他に説向せん。

挙す、曹山、徳尚座に問ふ、仏の真法身は猶ほ虚空の如し、物に応じて形を現ずることは水中の月の如し、作麼生か箇の応ずる底の道理を説かん。徳云く、驢の井を覩るが如し。道うことは即ちはなはだ道ふ、只だ八成を道ひ得たり。徳云く、和尚又如何。山云く、井の驢を覩るが如し。

 曹山本寂禅師、洞山良价の嗣、ともに曹洞宗の祖、諸の有智のものは比喩たとえをもって理解することができる、日常一般です、認識というたとえばこのようなものです、それで理解できたかというと、理解できたという思い込みですか、知識の交通整理、だからどうのの道です、これに疑問をもってはじめて、本当はという仏の世界です。そうして本当は何かというと、実に本則のごとく、仏の真法身は猶ほ虚空の如し、物に応じて形を現ずる以外にないんです。得る理解するという手応えがない、手応えをいえばものみな全体ですか=ナッシングですか、求め尽くして、終に求める自分を離れる、ぜんたいはるかに塵埃を出ず、ほおっと入ってしまっているのへ、入ったという、入っているという実感がない、これおもしろいんですよ。清々とか生き甲斐のはんちゅうを遙に超えるんです、だからおもしろいんです。その面白いことは、徳上座驢ろばの井戸を見るごとくという、そりゃまったく云い得ているんです、そいつを井の驢を見る如くという、がっさり落ちるんです、うわーっ全体、アッハッハまあそんなこってす。類して等しからず、混ずる時んば処を知る、意言に非ざれば、来機また趣むくと、洞山大師宝鏡三味にあるように、汝これ彼にあらず、彼まさにこれ汝と、このお経どこ取ったって別段のことはないんです、汝今これを得たりと、よろしくよく保護して下さい。

頌に云く、驢井を覩、井驢を覩る。智容れて外くる無く、浄涵して余りあり。肘後誰か印を分たん。家中書を蓄へず、機糸掛けじ梭頭の事、文彩縦横意自ら殊なり。

 ろばという愚鈍代表でしょう、無形容なんです、たしかに日常坐臥こうある、黒漆のこんろん夜に走るというより、暗室移らずですか、これを驢と云ったんです。
そうしてぜんたい井戸のようなのは、その真ん中にあるまっしんです。碧水層山玉を削りて円かなり、あるいは深い井戸の底という。なに開けていりゃいいんです、すべからく目は見開くべし、自閉症の坐禅やってるんじゃないんです、春風いたってあるいはしくしく雨が降る、まさにそれを呼吸しそれが呼吸する、わしみたいひなむくれ老人だろうが、青春であり父母未生前です。井驢を見る如く済々無窮を味わって下さい。
はあて誰が味わうんですか。そうですよこれなくんば仏教もへちまもないです。
家中に書を貯えずはまさにわしがこと、本棚なし、いつもどっか行っちまって、必要になると大変、たいていだれかの借りてほったらかし。本なんか読まないよという、だってつまらない、へたくそせせこましい、いやまあそういうこったが、智容れて外れるなく、浄涵して余りありは、まったくもってその通りです、そうねえ地球宇宙人間以外まさにそのように生きているんですか。記述したりだれかに伝えってこと、別段いらんのです。機梭糸をかけずとも文彩縦横無尽、勉強しないかってそんなことないです、でもまあさっさと忘れちまうほう早いか。うんいい文章つくってやろうか。
これはこれ風力の所転、感動を与えってアッハッハ餓鬼どものふりせにゃいかんぜ。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-23 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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