第六十二則 米胡悟不

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 衆に示して云く、達磨の第一義諦、梁武頭迷ふ。浄名の不二法門、文殊口過まる。
還って入作の分有りや也た無しや。

挙す、米胡、僧をして仰山に問はしむ。今時の人還って悟を仮るや否や。山云く、悟は即ち無きにはあらず、第二頭に落つること争奈何せん。僧廻って米胡に挙似す。胡深く之を肯ふ。

 米胡、雪峰に継ぐといいい山に継ぐともいう、なんで自分で行って問うことをしないのかというと、まあそういうこともあるわけです。仰山一刀に両断す、今時の人還って悟を仮るや否や、悟りを得たといいそれ故にという、居直り禅に、悟りなんかないという尻をまくるのや、いえここはずっとまともなんです。悟り終われば悟りなし、全身全霊もて悟りを得るんです、それは驚天動地、ユーレイカというより、手の舞い足の踏むところを知らずです。それがどういうものか消えてしまう、はたしてあれはなんであったかというには、却って距離を置く、そうではないんです、今時のおのれはというだけ余計です、今のおのれしかないんです。でもって悟を仮るや否や、悟りを得てはじめて知る、もとかくのごとくあるをと、そりゃどういってみたってそういうこってす。しかもなを悟り有りや無しやと聞かれれば、まるっきりそんなもな無いんです。故に山云く、悟りは即ち無きにはあらず、第二頭に落つることいかんせん。あのときこう悟ったという鑑覚の病ですか、不都合ですか、たしかに第二頭ヘビの双頭ですか、そりゃうまく行かんです。悟りを諦めることです、悟り以外仏教とてないんです、悟りを捨てる仏教を捨てる、すなわち自分の生涯自分をなげうつんです、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけれ、法の他にまっ
たくないんです。ここにおいて達磨廓然です、不識をもって花開く、人間の如来は人間に同ぜるが如し、維摩の真面目も文殊の知恵もそりゃはるかに届かんですかアッハッハ。

頌に云く、第二頭悟を分って迷を破る、快に須べからく手を撒して筌ていを捨つべし。功未だ尽きざれば駢拇となる、智や知り難し噬臍を覚ゆ。兎老いて氷盤秋露泣く、鳥寒うして玉樹暁風凄たり。持し来たって大仰真仮を弁ず、痕点全く無うして白珪を貴ぶ。

筌てい(四の下に弟)うけという魚を取る道具に兎わなです、第二頭悟りをもって見るんですか、仏教という標準が今度は筌ていとなって、悟りというかくあるべきです、どうもやっぱり誰彼これを免れるに四苦八苦ですか、どこまで行ってもということあって、ついには手を撒っす手放しです、捨身施虎身心なげうつんです、そりゃ悟りを得る前と同じだという、就中したたかであったりします、でもこれ道が進んでいるんですよ、絶え間なしの退歩ってことあります、悟りを得ぬまえはこうはいかんです。俗にもういっぺんやれば納まるという、まあこれです、面白うなければ面白うなるまでという、その裏かわから来たりの、なんともこれ筌ていを外れるんですか、まあやって下さい、どっちみちおまえさんなんかこの世に用なしってなもんですアッハッハ。駢拇足の指肉の連なった不具です、なんとしても、おれがというそれあったらただの人にならんです、以無所得故です、なんともまあ元の木阿弥、どうしようもないんです、噬は噛むへそを噛むんです、これまあ悟後の修行の苦心惨憺をだれしも知る、米胡に乾杯ってわけですか、兎老いて氷盤は晩秋の月ですか、玉樹暁風凄はなかなか、そりゃまあ人情世間から云えばそうなりますか、わしのようなぐうたらでさえ世の中人間のはるかに取り付く島もないです、でもって坐るごとにしょうもないやつが顔を覗ける、はいおさらばってやってますよ。この事二二んが四、別段なにもありゃせんですがかくの如し。

画像の出典  オーストラリアにて・方丈 /方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-06-01 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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