第六十三則 趙州問死

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 衆に示して云く、三聖と雪峰とは春蘭秋菊なり。趙州と投子とは卞璧燕金なり。無星秤上両頭平らかなり。没底航中一処に渡る。二人相見の時如何。

挙す、趙州投子に問ふ、大死底の人却って活する時如何。子云く、夜行と許さず明に投じて須からく到るべし。

三聖雪峰第三十三則三聖金鱗にあります、三聖慧然臨済の嗣、雪峰は徳山の嗣、大趙州は南泉普願の嗣、投子義青は太陽警玄の嗣、ともにこれ並ぶなき大宗旨と、春蘭に比するに秋菊、卞璧燕金軽重亡きこと双方比類なき宝、星のない秤世間の秤ではなくという、計るに計れないんでしょう、底なしの航海ですか、航は舟にエです、二人相見の時如何という、そりゃ行深般若波羅蜜多、彼岸にわたるに深浅ありと、ここに至って切磋琢磨、油断なき日々という、ちらともあればそれによって倒れるんです、転んでもただでは起きない日々ですか、大趙州でさえ投子に問うんです、大死底の人却って活するとき如何、死にゃ生き返るんですか、いいえ自分死ぬ分回りが生きるといえばいいか、あるとき有頂天あるときなんでもなくです、つまらないといってはその分面白かったりする、それはまた風力の所転、ですがそいつをよこしまにするなという、間文人などの孤独ではない、ひとりよがりじゃないってことです。ここが仏教の断然仏教たるゆえんです、一生不離叢林、良寛対大古法にがきどもを以てする所以です、わかりますかこれ。りゃ我無ければ他が為以外にはなく、あるいは自未得度先度他の故にですが、だからかくの如しじゃない、もってこれを回転です、でなくば臍を噛む思いですか。明に投じてすべからく到るべし、夜行を許さずの一点ゆるがせにせぬ覚悟です。なんでもありの悟ればマルというのは終わったんです、ただの人の200%日々是好日これ。

頌に云く、芥城劫石妙に初めを窮む、活眼環中廓虚を照らす。夜行を許さず暁に投じて到る。家音未だ肯へて鴻魚に付せず。

 劫という長い時間を論ずるのに、一大城東西千里南北四千里、これに芥子を満たして、百歳に諸天来たって一を取る、芥子尽きるまでと、一大石あり方四十里百歳に諸天来たって衣に払う、石のすりきれて尽きるまでという、こっちのほうが一般的です、芥城劫石長い時間ですか、趙州六十歳再行脚という、我より勝れる者は三歳の童子といえどもこれに師事し、我より劣れる者は百歳の老翁といえどもこれに教示すと為人の所です、まさにこれより始まる、廓虚自分というものの失せきって行くありさまです、これなおざりにしちゃいかんです、できたと思ってもますますです、どこまで行ってもの感がありますよ、アッハッハ活眼環中上には上があるんですか、なにさ一生この事の他ないんです。夜行を許さず暁に投じて行く他ない道中、なんていうんだろこれ、裏を見せ表を見せて散る落ち葉、焚くほどは風がもてくる落ち葉かなでもいいです、たいていの人の持つ裏表、家庭の事情がないんです、鴻魚手紙で通信することです、うっふっふそういったこといらんのですよ。至道無難唯嫌揀択ただ憎愛なければ洞然として明白なり、余は明白裏にあらずという、すでに明白裏にあらずんばなんとしてか唯嫌揀択、云うことは云いえたり礼拝し去れという、趙州大趙州です。
そりゃまっしぐら脇目も振らずの他ないんです。そうですよどんなに年食おうが遅いってことないんです、得られたことだけがあるんです、しからずんばまた生まれ変わって得て下さいってね。

画像の出典  たんぽぽ/ 静岡市葵区新間
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by tozanji | 2005-07-01 20:01 | 従容録 宏智の頌古


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