第六十四則 子昭承嗣

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 衆に示して云く、韶陽親しく睦州に見えて香を雪老に拈ず、投子面のあたり円鑒に承けて法を大陽に嗣ぐ。珊瑚枝上に玉花開き、せん葡林中に金果熟す。且らく道へ如何が造化し来たらん。

挙す、子昭首座法眼に問ふ、和尚開堂何人に承嗣するや。眼云く、地蔵。昭云く、太はだ長慶先師に辜負す。眼云く、某甲長慶の一転語を会せず。昭云く、何ぞ問はざる。眼云く、万象之中獨露身。意作麼生。昭乃ち払子を竪起す。眼云く、此は是れ長慶の処に学する底なり、首座分乗作麼生。昭無語。眼云く、只だ万象之中獨露身というが如きんば是れ万象を撥らふか万象を撥らはざるか。昭云く、撥はず。眼云く両箇。参随の左右皆撥ふと云ふ。眼云く、万象之中獨露身、にい。

 韶陽雲門大師は睦州(陳尊、黄檗の嗣)に始め参学す、雪老雪峰の法を嗣ぐ、投子義青は円鑒臨済七世の孫、大陽警玄の法を受けて投子を嗣続せりとある、すなわち珊瑚樹上に玉花開き、せんぷくは香花と訳すそうです、金果熟すをもって、大法の伝わる様子。そりゃ因縁熟す、順熟という、熟した柿がほろりと落ちるようにという、法眼托鉢行脚のついで地蔵に会う、なんのため行脚すると云われて、知らん行脚してるんだという、知らぬもっとも親切といわれて大悟、ほんとうに他なし無所得の風景が一転するんです。たとい長慶に参じて久しいとはいえ、某甲一転語を会せずということがあった。子昭も共に久参です、だのに地蔵に嗣ぐと、なんでだと問う、師匠に背くではないか。万象の中獨露身意そもさんと却って問われる、昭すなわち払子を竪起す、あるいはこれあってかくの如しとやってたんでしょう、是とするには未だし。首座分乗そもさん、おまえの云い分はどうなんだと問はれて、ついに無語。法眼探棹影草ですか、ひっかきまわす、撥か撥にあらざるか、撥わずと案の定ひっかかって来た、こいつを撥わにゃならんです、百尺竿頭いま一歩です、万象のうち獨露身と示す、箇の無縫塔です、にいは斬に耳、かつとかろというやつ、法眼常套手段かつて知るや否や。

頌に云く、念を離れて仏を見、塵を破って経を出だす。現成の家法、誰か門庭を立せん。月は舟を逐ふて江練の浄に行き、春は草に随って焼痕の青きに上る。撥と不撥と、聴くこと丁寧にせよ。三径荒に就いて帰ることは便ち得たり、旧時の松菊尚芳馨。

 念を離れて仏を見ることは、もとまさにこのとおりなんですが、就中困難です、臨済も曹洞は死出虫稼業の他見る陰もないんですが、今様坊主、念を離れて仏という人を知らんです、お経にしがみついてだみ声上げるばっかり、唾棄すべきです。鶯のように蛙のように鳴いてみろってアッハッハわしとこの一応目安ですが、自分というものまったく失せてお経は、そうねえ人みな感激します、生まれてはじめてお経を聞いた、どうしてこんなに気分がいいんだろという。説法なくばせめて身を以て示して下さい。現成の家風だれか門庭を立せん、わしと他さまざま宗旨と違うのは、みな宗旨といい門徒という、仏教悟りの中にあっての云々です。わしはそうではないもとものみななんです、世間出世間まっ平らです、しかもわし以上に仏を信ずる者なしと思ってます。家法門庭をいう、虎の威をかる狐ですか、わしにはそんな大それたものはない、自分というどうしようもないものを、断じて許せぬものをついに免れた、というんですか、自分無ければ可と、それだけです。するとある時如来と現ずるんです、月はかつての自分という舟を追うんですか、いえ月もなく舟もないんです、それをしも江練、練り絹のような水というたですか、ビジュアルには雪舟の絵があります、参照して下さい。これは春野焼きのあとの青草ですか、初々しく生い伸びる、いっぺん撥と不撥と旧によって塵芥を払拭するんですか、三径という色不異空のしきいを跨いで、色即是空を知る、ついには元の木阿弥です、しかも自分というわだかまりが全く失せるんです、暫く七転八倒ありますか、そりゃただではただが得られない、でも一生を棒に振る価値はあります。

画像の出典  ハハコグサ/静岡県静岡市葵区新間
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by tozanji | 2005-07-02 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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