第六十八則 夾山揮剣

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 衆に示して云く、寰中は天使の勅、こん外は将軍の令、有る時は門頭に力を得、有る時は室内に尊と称す。且らく道へ是れ甚麼人ぞ。

挙す、僧夾山に問ふ、塵を撥って仏を見る時如何。山云く、直に須らく剣を揮うべし。若し剣を揮はずんば漁父巣に棲まん。僧挙して石霜に問ふ、塵を撥って仏を見る時如何。霜云く、渠に国土なし、何れの処にか渠に逢はん。僧廻って夾山に挙似す。山上堂して云く、門庭の施設は老僧に如かず、入理の深談は猶石霜の百歩に較れり。

 夾山善会禅師は船子和尚の嗣、石霜慶諸禅師は道吾円智の嗣。夾山は道吾に云われて船子和尚に参ずる、船子徳誠、薬山惟儼の嗣、華亭にあって小舟を浮かべて往来の人を度す、法を夾山に伝えて、自ら舟をくつがえして煙波に没すとある。寰中畿内ですか、天子の勅が行き渡る、こんは門に困、塞外というか門外は将軍の威令による、まあこれ一応坐になる、坐禅として定に入るということですか、渠に国土なし、いずれの処にか渠を見んとこう坐ってるんです、塵塵三味ですか、捉えようたって捉えようがないです、寰中は天子の勅、勅は行きっぱなし、出たらそれっきりの絶え間なし出ようが、そいつに乗っ取ろうがなにしようが、首切られてまで文句いうやついないんですよ、正しいか間違っているかアッハッハそんなこた知らん、ていうより正邪もと根無草ですか、因果をくらまさず、どうもさっぱりわからんまんま。ですが妄想煩瑣というか、なにしろ右往左往、とっつきひっつきの時分は、将軍の直に須からく剣を揮うべしです。ばっさりばっさりやりゃいい、頭一つふるうとふっ消える、前念消ゆれば後念断つ、切ることはふっ切ればいい。悟ったらどうかといって、いずれ同じ迷い出す、なんとかせにゃならん、どうにも外れんところ、捕われるところを、あるとき本当に取り除くんです。一切無礙一切自由、如来となってしばらくこの世に現ずる実感ですか、でもそんな取り決めはないんです、歴史だの世界だの諸思想宗教を圧するんですか。なに出入り自由といったほどの、かすっともかすらないんです、仏を見るに仏を見ず、自分というもののない、なけりゃどうしてないを知るんだという、はいとやこう云わずにやって下さい、他なしってことを自覚します、これを無自覚というアッハッハ。

頌に云く、牛を払ふ剣気、兵を洗う威。乱を定むる帰功更に是れ誰ぞ。一旦の氛埃四海に清し、衣を垂れて皇化自ずから無為。

 氛は気、妖気凶事に使う、牛を払う剣という、牛は牽牛の星、観察するに異気ありといってとやこう、石の箱に二振りの剣があって云々の故事。武王紂を撃つ、大雨が降ってこれ天が兵を洗うといった。まあ中国四千年故事だらけで、もってするのが詩人というものだが、どっちみち木石山河を用いるのとアッハッハ目糞鼻くそですか、なんていうと怒られますか。人の知る処を利用するは禅家の日常茶飯、大げさにしたって百害あって一利なし。まあいいいか坐っていて妄想百般、あるいは念起念滅、乱を定める帰功更に誰ぞと、まあとにかくそういうこってす。不思議に収まり不思議にまた起こる、これをどうこうしようという念の納まる、対峙を双眠するという、常坐ってはこの繰り返しですか。一旦の氛埃納りかえって四海清しと、そこに自分というものあっちゃ届かないんです。自分という自分以外ですか、たしかに知ることは知るんです、でも言語に絶するんです、これを皇化衣を垂れて自ずからという、なかなかむかしの中国人は無為を云うにも、これだけの大袈裟、いやさ繊細があった。今の中国人は別人かな、エレガンスとか教養のかけらもない、ぶたに眼がねみたい為政者どもの、万ず屁理屈聞いていると、腹立つ前に呆れ返る。共産主義すなわち思考停止の成れの果て。

画像の出典  東山寺の蔵書より
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by tozanji | 2005-07-06 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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