第七十八則 雲門餬餅


衆に示して云く、べん天に価を索むれば搏地に相報ふ、百計経求一場の麼羅、還って進退を知り、休咎を識る底ありや。

挙す、僧雲門に問ふ、如何なるか是れ超仏越祖の談。門云く、餬餅。

 雲門文偃禅師、青原下六世雪峰義存の嗣、雲門餬餅という、多少かじるとじきに耳に入って来る、洞山麻三斤など、いわく噛み難く、嚼しがたしと。取り付く島もないんですか、すなわち完全、満天に価を求むれば満地にあいささうんですか。べんは糸に免で満と同じく、搏地即ち満地だそうです。百計千謀といい経歴馳求という、そうですよ、たいてい雲門餬餅、ごまの入った餅ですとさ、これに出食わすと百計千謀し経歴馳走するんです、いったいなんだといって答えを出したい。答えを出すとはどういうことか、餬餅こびょうと答えがあるのに、それをまた答えるとは、なにか持ち物総動員してかくあるべきやるんです、どっかの物差しに触れるという、納得という変なことをする。どうですか、餬餅とわかんなかったら、わかろうとする自分を捨てる、すなわち、自分という根拠、囲い込みを明け渡して下さい。餬餅と、まずは見るもの聞くものになり終わって下さい、オウと云えばまさにぜんたいオウと応えるんです。悟りといい超凡越聖という、そうしたいらん手続きが不要です。この世に納得すべきなんの必要もないんです。進退を知るとは自ずからです、ぴったり実にきしっとしているんです。これを野狐禅天下取ったふうにやると、乱暴で雑っぱです、こっちの岸です、一神教の独り善がりになります。休咎という、悟ったにしろ悟り終わって悟りなしにしろ、ちらともかくあるべしといえば、よって滞るんです。餬餅はたして薬弊、さあどうです、いえわしについていえば毎日坐して、かろうじて自救不了を知るんですか。はいお粗末。

頌に云く、餬餅を超仏祖の談と云ふ、句中に味はひ無し如何が参ぜん。衲僧一日如し飽くことを知らば、方に見ん雲門の面慙じざることを。

 そりゃそうです、餬餅ごまの入った餅を超仏越祖の談義とする、いったいどういうことか。味わいなし如何が参ぜん。取り付く島もないただの人。世間一般ただの人とどう違うんですか。ことは同じ雲泥の相違ありとは、微塵もつくなし、ゆるがせにならんことは、何比較するといったって、蝶や花や鳥や雲と同じです。一点ゆるんだら滅びる、いえまったく様にならんのです、まあそんなふうにアッハッハ取り付いてみますか。たしかに超仏越祖といって、何別にあるものではない、うさんくさい一物もとっつかないです。坐っていてどうですか、自分というごつごととして箇の坐状がありますか、たといあったとてそれ自分のものですか、多々あろうがなんにもなかろうが、念起念滅、自分の持ち物ないんです、すると坐として成立するんです、これを万松老人は一日もし飽くことを知らばと云ったんです、まったく終わった人の、日々是好日、仏向上の事です、たしかに邵陽老人はでたらめ云わんというんですよ。

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by tozanji | 2005-07-16 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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