第八十二則 雲門声色

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 衆に示して云く、声色を断ぜざれば是れ随処堕、声を以て求め、色を以て見れば如来を見ず。路に就いて家に還る底あること莫しや。

挙す、雲門衆に示して云く、聞声悟道、見色明心、観世音菩薩銭を将ち来たって餬餅を買う、手を放下すれば却って是れ饅頭。

 声色の奴卑と馳走すという、声と色という、見聞覚知のたいていがそりゃまったくの思い込みということを知らない、夢から覚めてまた夢のとやっている。どうしてもいったん悟、解脱ということあって、声と色の奴隷を免れるんです。自分という形骸を脱し去る、就中困難です、随処堕というだれかれみなどうしようもないんです、年をとるにしたがい骸骨です、常識の色餓鬼ですか、そいつがひっからびて棺桶です、みっともないったら死にとうもないってアッハッハ、ついぞ生きた覚えもないのにさ。如来を見ずです、来たる如し、あるがまんまを夢にも知らずあの世行きです、生まれ変わって出ておいでというほかなし、地獄の世の中六道輪廻とはこれを云う。路について家に帰る人ありや。雲門大師は雪峰義存の嗣、聞声悟道、香厳爆竹の因縁ですか、自分という架空を失せきって庭を掃いていたんでしょう、掃子に撥ね飛んだ石が竹に当たった、これによってはあっと一念起こるんです、我というものまったくなくものみながある、爆竹の機縁です。見色明心は、霊雲は桃花の色を見て心を明きらめたとある、花の綻ぶを見て悟ったという我国盤桂禅師、そりゃまったく同じなんです、桃花について忘我です、我というものなしに花を、空の雲を見てごらんなさい。常識の奴隷という、悪臭紛々たるお仕着せを脱いで、生まれてこのかたの宇宙風呂ですか。うわあ清々なんてものじゃないってわけです。ついにはもとこうであったと知る。たまたま観世音菩薩が、銭もって餬餅あんころ餅みたいらしいです、を買いに来た如く、観音如来としてこうある自分に気がつく、しゃばという世の中にしばらくあったということですか。放下すれば饅頭で、これあんこが中ですか、アッハッハ色即是空が空即是色なんて、そんなんにひっかからないんですよ。

頌に云く、門を出でて馬を躍らしめて讒槍を掃ふ。万国の煙塵自ら粛清。十二処亡ず閑影響。三千界に浄光明を放つ。

 門を出て馬を躍らしめてという、坐って坐って坐り抜いてという、求めるところを懸命に、不惜身命に求めるんですか、ではそいつを手放して行くんです。門の内から外へ、こうと取り込むんじゃなくて手放し、虚空というかすっともかすらない、なんにもないものに食われるんです。無茶苦茶です。百年万年無駄遣い、どうしようもこうしようも、とにかく捨てる。いいものほど役に立たない、アッハッハたいていこんなふうに坐って下さい、讒は手へんなんです、ざん槍で彗星ですとさ、即ち世の乱れる兆し、だれが乱す自分が乱す、あっはあそうかっていって止めればいい、無心無身なんにもないのを、なんにもないというんじゃそりゃしょうがないです。自ずから粛清はまったく手応えなしです。あるとき退屈あるとき退屈とはいわんのです、さあしっかり得て下さい。三千世界大光明、うっふ他にないんですよ、仏あって我なし、我あって仏なし、日々新たにという旧態依然という、一木一草まさにかくの如し。いいえすばらしいんです、愚の如く魯の如く、水自ずから澄む。
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by tozanji | 2005-07-20 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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