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第八十八則 楞厳不見

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 衆に示して云く、見あり不見あり、日午灯を点ず。見なく不見なし、夜半墨を溌ぐ。若し見聞は幻翳の如くなることを信ぜば、方に声色空花の如くなることを知らん。且く道へ教中還って衲僧の説話ありや。

挙す、楞厳経に云く、吾が不見の時何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見るといはば自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば自然に物に非ず。如何ぞ汝に非ざらん。

 楞厳呪は梵語のまま読むことになっていて、ナムサタンドウスギャト-ヤ-と新到泣かせの長いやつを、五月六月毎日読む、でもってなんとか覚えて僧堂を出ると忘れてしまう。宗門坊主にとって、お経はお布施を稼ぐ道具以外になく、ましてや内容などは、そりゃ説教のネタにすりゃまた別という。もっともお経を知って説話したって、自分がその示す通りにならなけりゃ、なんにもならぬ嘘八百。これはその例にいい、言葉ずら捉えたって就中わけもわからんようできている。見あり不見ありと、どういうこったかわかりますか。見る、見性という、どうでも一度は見んけりゃそりゃお話にならん、仏教として成り立たぬのです。学者とか坊主の類はそれを知らんです。でも見るとは見る人がいないんですよ、ものみなあって自分なし、自分という架空請求に拠らんから、我と有情と同時成道のかの獅子吼があるんです、でもこう気がつく以前、まったくの不見忘我があります。それゆえ楞厳呪のこの語があります、吾が不見の時なんぞ吾が不見の処を見ざる、大悟徹底悟るという、たといなんぞ吾がという、そっくりそれ答え、でも身心脱落、いえ脱落身心の日常まさにこうあるきりです。若し不見を見るといはばそりゃ嘘だという、でもこの不見の地がなけりゃそりゃ問題にならんという、はいとにかくこれを知って下さい。でなきゃいかんが汝に非ざらん、即ち四の五の云ったってそりゃどうにもならんです。

頌に云く、滄海を瀝乾し、大虚に充満す。衲僧鼻孔長く、古仏舌頭短し。珠糸九曲を度し、玉機わずかに一転す。直下相逢うて誰か渠を知らん、始めて信ず、斯人伴ふべからざることを。

 大海の水を飲み干せとか、よく公案小道具にあります、大虚に充満す、手に持ったお椀の中にころっと入るとか、身心脱落はあるいはこの世から完全に姿を消すんですか、すると鼻孔長くアッハッハどっか仏の相というのは、大風にできてますか、そうして舌頭短し、能書き三百代言しないんです。わずかに一転語する、あるいは一に永えに接するんです。直下あいあうて誰か渠を知らん、そりゃまったくわからんです、他はついに変だなあというぐらい。知ったとて窺い知ること不可能、だってさ自分を知らない人を、どうして知ることができる。始めて信ず、この人伴うべからざることをとは、云いえて妙です。まあ自ずからこうなるしかないってことですな。
by tozanji | 2005-08-11 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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