人気ブログランキング | 話題のタグを見る

第九十五則 臨済一画

第九十五則 臨済一画_c0015568_11325573.jpg

 衆に示して云く、仏来たるも也た打し、魔来たるも也た打す、理有るも三十、理無きも三十す。為復是れあやまって怨讐を認めるか、為復是れ良善を分たざるか、試みに道へ、看ん。

挙す、臨済、院主に問ふ、甚の処よりか来たる。主云く、州中に黄米を売り来たる。済云く、糶得し尽くすや。主云く、糶得し尽くす。済柱杖を以て一画して云く、還って這箇を糶得せんや。主便ち喝す。済便ち打つ。次に典座至る、前話を挙す。座云く、院主和尚の意を会せず。済云く、爾亦作麼生。座便ち礼拝す。済亦打つ。

 臨済義玄禅師は黄檗希運の嗣臨済宗の祖、仏来たるも打ち、魔来たるも打ちですか、払拳棒喝の元祖みたいな人で、そいつがまた黄檗に打たれて、なんでまた一言半句すりゃ打たれにゃならんと文句を云う、打たれりゃ痛いと見える、でもって黄檗の親切がわからんのかと云われて忽然大悟、如何なるか是れ仏、求めるに成り切ってその上なんです、首くくる縄もなし年の暮れ、自分という架空請求が吹っ飛んでるんです、わかりますかこれ。わかったといっても三十棒、わからんと云っても三十棒、院主は寺院の事務など一切を引き受ける役、監院といって禅師の次の位ですか、能登の祖院へ行ったら、脱ぎ捨ての草履監院老師に揃えられて、はなはだ恐縮、恥ずかしくってもう祖院には行かれねえやって、弟子が云った。え-となんだっけ、典座は会計台所いっさいを預かる役、典座と雲衲を総括する維那とまあこりゃ三つ大役ですか。さすがに臨済んとこは、一隻眼ばかり出揃っている、そりゃかつて永平寺でもそうだったでしょう、活発発地をもって回っていたんんです。今様嘘で塗り固めて、どんみり淀んで息もできないのとは、うっふこりゃ云うも野暮か。糶=売るんです、すっかり売ったか、はい売り尽くした、臨済柱杖を以て一画してさあ売ってみろという、院主喝す、すなわち打つ。典座に挙せば、、院主意を会せずという、ならどうする。典座礼拝す、すなわち打つ。怨み残さんようにさと、万松老人老婆親切、はたして打つ用があったんですか、なかったんですか。

頌に云く、臨済の全機格調高し、棒頭に眼あり秋毫を弁ず。狐兎を掃除して家風俊なり、魚竜を変化して電火焼く、活人剣殺人刀、天に倚って雪を照らし吸毛を利し、一等に令行して慈味別なり、十分の痛処是れ誰か遇はん。

 臨済の全機格調高し、まあそういうこってす、格調とは寸分もゆるがせにしないこと、雪上に霜を置くも、泥中に土塊を洗うもない、まさにこれ電火焼く、痛棒他なしですか、院主若しちらともこうすべきあれば、打って雲散霧消、典座若しちらともらしくするあれば打って倒退三千、活人剣殺人刀、そりゃせっかく父母未生前の200%を、てめえで蓋することはない、奪うには痛棒、すなわち蘇るんです、これを頌して天によって雪を照らし、令行して慈味別なりという、さても十分のところ誰あってこれを受けるか、そうですまあ永しなえに応答して下さいよ、いやはや大騒ぎの末にのこっと化けて出たり、てなことなきように。はい老婆親切。
by tozanji | 2005-08-18 00:00 | 従容録 宏智の頌古


<< 第九十六則 九峰不肯 第九十四則 洞山不安 >>