第九十六則 九峰不肯

c0015568_11353138.jpg

 衆に示して云く、雲居は戒珠舎利を憑まず、九峰は坐脱立亡を愛せず。牛頭は百鳥花を衒むことを要さず、黄檗は杯を浮かべて水を渡ることを羨まず。且らく道へ何の長処かあるや。

挙す、九峰、石霜に在って侍者と作る、霜遷化の後、衆、堂中の首座を請して住持を接続せしめんと欲す。峰肯はず乃ち云く、某甲が問過せんを待て、若し先師の意を会せば先師の如くに侍奉せん、遂に問う、先師道はく、休し去り、喝し去り、一念万年にし去り、寒灰枯木にし去り、一条白練にし去ると、且らく道へ甚麼辺の事を明かすや。座云く、一色辺の事を明かす。峰云く、恁麼ならば未だ先師の意を会せざるあり。座云く、汝我を肯はざるや、香を装い来たれ。座乃ち香を焚いて云く、我れ若し先師の意を会せずんば、香煙起こる処脱し去ることを得じ、云い訖って便ち坐脱す。峰乃ち其の背を撫して云く、坐脱立亡は則ち無きにはあらず、先師の意は未だ夢にも見ざるなり。

 雲居道膺禅師は洞山良价の嗣、戒珠舎利とは生前戒行正しい人の遺骨、九峰の道虔大覚禅師は石霜慶諸の嗣、牛頭法融禅師四祖大医道信の嗣、心銘あり、牛頭山の石室に入って、百鳥花をついばむ異相あり、のち四祖に見えて大法を得る。黄檗は行脚の途中、道連れが水上を歩みわたるのを見て、なんてえことをする、せっかく法の人と思ったのにといって、袂を分かつ。今ここに於て九峰、坐脱立忘の、これをまあなんていったって標にしての修行です、仏である証拠とばかりにするんでしょう、首座和尚は一香を焚く間に坐脱する、うっふお悟り機械みたいなん、そいつの背中撫でて、いい子だいい子だ、見事なもんだけどなをかつ、先師の意を未だ夢にだも見ずとやる。どうですかこれ、老師が静に入れる人はうらやましいですねえと云った、わしはだいぶ変な気がした、だって老師の悟は空前絶後と云われるほどのものであって、それがいったいなぜという。未だ夢にだも見ざるものあり、仏とはなにか、おれはかくの如くであるからという、まずはそいつを取れ、技術屋の技術じゃない、ではさしのべる手であるか、だったらそいつをアッハッハ、始末しちまってから出せ。

頌に云く、石霜の一宗親しく九峰に伝ふ、香煙に脱し去り、正脈通じ難し。月巣の鶴は千年の夢を作し、雪屋の人は一色の功に迷う。十方を坐断するも猶点額す、密に一歩を移さば飛竜を見ん。

 点額は落第のこと、魚竜と変じ切れずひたいを打ちつけて落ちるにより、せっかく香煙に脱し去って、なおかつ正脈通じ難し。そりゃ仏教以前今に至るまで、さまざまに忘我の法はあって、一神教の他はたいていこれを用いるんです。どう違うかというとみなどっかに付け足す部分がある、禅定という資格試験みないにして、一手段ですか、密教がそうです、端にこれだけということを知らない。直指人身見性成仏もとこれっきりを知らないんです。ではこの首座の如きはまさにこれっきりじゃないかという、アッハッハこれっきりを一色の功です。袋小路のどんずまりみたい、座忘人間ですか、たとい千年の夢をなしたろうが、そんじゃ勝手にさらせってやつです。さすがに九峰はこれを見る、なに三歳の童子だろうがそりゃ不肯ですよ、坐忘なくば力失せとありますが、だれあってこれを得ること、魚の水にある如く、雲の空を行く如くの活発発地です、どうかすべからく手に入れて下さい。はい、ことはそれからです。
[PR]
by tozanji | 2005-08-19 00:00 | 従容録 宏智の頌古


<< 第九十七則 光帝ぼく頭 第九十五則 臨済一画 >>