二、観自在菩薩自在に観る菩薩

二、観自在菩薩自在に観る菩薩

なんの囚われもなく見てごらん、赤ん坊のようにまっさらに。
菩薩とは、我をなげうってほかの為にするあれば菩薩、人みな菩薩。
向上心とは何か、自分という架空請求=よこしまを捨てる行です、そのほかにはないんです。
意味のない人殺しや趣味お宅の殺人など、こういう連中も菩薩になりうるんですか、はい菩薩になる時に、死をもって償う必要があります、人間自分だけじゃなんにもならんことに気がつく、そこからです。名なしの2チャンネルほか、人格以前おむつを取り替えて貰いながら文句を云っている、まずもってそれを糾すこと。

行深般若波羅蜜多時ぱ-らみ-た-彼岸に渡ることを深く行ずる時、坐禅見性です、自分を明けわたすことは、思想観念上ではできない、思い観ずる自分が関わるからです。念起念滅、ぽっと出ぽっと消える、念想観に関わらぬことを学ぶ必要があります。
思想の内容を問わぬこと、たいていの人これができない。すると仏教入門にはならない。是非善悪の子です。
他の諸宗との違いこれ、いいことしいをやらない、同じ羽根の鳥を集めない、独善ではない、人間だけが選良ではないことを知る。
すべての迷い、人間の一切事諸問題が、念起念滅するその処置のみにあるということ。
ぱ-らみ-た-の法はここにおいて成立する。
深く行ずるとは忘我です。
意識する物心つく以前にいったん立ち返る。
念起こって再び立ち返る、このときに自分という架空請求が、どこでどうして起こったかを知る。
迷いのもとと本来のありようを知る、一瞬に知る、これが仏教です。
この宗毫末なれども一切沙界含容すと、他に仏教というものはないんです。

あると思っているのは嘘です、ただの噂話ですか、仏とは云えない、これをよく見ることです=観自在菩薩。

照見五蘊皆空すべては思い込みであったと知って、色受想行識の五蘊、べつに難しいこと云わんたっていいです、色は外界の目に見え聞こえするもの、受はそれを覚知する、想い行ない識別する、まあ一切合財ですか、思想信仰歴史だの哲学だのこんぐらかりこんぐろまりっとです、仏教的認識がどうのって詮索したってしょうがない、すべてこうあるってだけでいいです、それが皆空、有ると思い込んでいただけであった、自己という架空請求の生い立ちです、な-んだもとない、去来するだけだったというより、ほんとうに無いんです。
ないものには悩まなくていい、自分という砂上楼閣、自分という=五蘊こんぐろまりっとの亡霊です、我と我が身をどうしようか、世間社会はという、ああそんなものまったくなかったんですよ、たといこれを知らなければ救いはないです。
すべては根無草。

度一切苦厄苦しみ厄介ごとはもと初めからなかったんです。はい仏教のすべてがこれ。
如来来たる如し、ものみな真正面、すなわち無し。


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画像  静岡市葵区にある清水公園の水車:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-01 00:00 | 提唱心経


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