五、是故空中無色無受想行識空中

五、是故空中無色無受想行識空中

自分なくものみな放てば掌に満つるんです、彼岸に渡りきってみると、目にうつるものみなが無、ないんです、それを受ける目もなく、たといどのような想念も無、妄想滅多矢鱈という、それを観察するものがないとき、まったく無ないの実感です、行ない識別もまた同じ、有ると無いと、生と死と別段なんのへだたりもない、父母未生以前と云われる、生まれ本来の風景です。

一年365日夢という、実際であればあるほどに夢。100%生きると夢、はたしてあったのかなかったのかというほどに、幼児の記憶がないのはむしろこれです、記憶記述とはあるいは傍観脇見運転ですよ。

無眼耳鼻舌身意無色声香味触法たった今も正にこの通りであることを確かめる。目がないという、あるではないか、どこに、ここにという、でもそれはそういう知識なんです、目がある、どこにあると認知する感覚器官はない、目で見る、見ているこっちと見られる向こうを区別することも不可能、耳鼻舌見意また同じです、習い覚えてこれを知る、つまり観念生活です、すると実際の生活とかけ離れる、どうもあんまり面白くない、どっちらけるということが起こる。
光前絶後事玉露浮於宙、悟り終わって露の玉のように宙に浮かぶというんです、無眼鼻耳舌身意ならば空中にぽっかり浮かぶほどに、内外なく世界宇宙ぜんたいがわがものであるはず。
我と有情と同時成仏という有頂天の喜びです、いえ天上も大地も底抜けですよ。

うんではそれはわかった、だが無意はなぜだ、意が無い、なければ脳死か発狂だ、そうです、無いとは意は一つ、心は一つだからです、一つが一つを観察すること不可能、だからないんです、これを無心、心が無いという、ないものは決して疵付かない、これを金剛不壊と云った。

意ないし心があると思う、念起念滅するその残像を追う、幽霊なんです、あらゆる悩み苦しみは、もとないものを追う、幽霊にたぶらかされるからです、人はあるものには悩まない、ないものに悩む、けりを付けようとすると、見えなくなるからです。

無色声香味触法無眼界乃至無意識界よって色声香味触法について確かめてみて下さい、体をつねる、どこをつねっているかわからない、痛いという言葉あるいは概念がないと、しばらくどういうことか、等等です。

峨山紹碩活埋境、峨山禅師あるときの臘八に、成ずるになんなんとする者十名を選び、足下に穴を穿ち、若し成ぜずんば生きていても仕方がない、生き埋めにすると云った。十名のうち九人は行く、一人がどうしても行かぬ、生き埋めにされちゃかなわんと云って、逃げ出した、途中石につまずいて生爪を剥がす、痛いことは激痛が、どこが痛いか解らない、身心失せて悉皆成仏です、まさにほんとうに一つことになった、無心、無眼界乃至無意識界を手中にする、のちのこれ通幻寂霊禅師。


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画像  静岡市葵区 音羽の滝:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-04 00:00 | 提唱心経


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