第三章

第三章

第三祖、商那和修尊者、阿難陀尊者に問ふ、何物か諸法本不生の性なる。阿難、和修の袈裟角を指す。また問ふ、何物か諸仏菩提の本性なる。阿難、また和修の袈裟角を取って引く。時に和修大悟す。


その名を商諾迦、自然服という、生まれたとき、衣を着て生まれる、それより以来、夏は涼しく、冬は暖かい衣となる。すなわち発心出家したとき、俗服おのずから袈裟となる。仏在世の蓮華式比丘尼は、たわぶれに袈裟をつけ、生まれかわって阿羅漢となる。尊者かつて商人であったとき、百仏に毛織物百丈を奉る、それ以来生生世世中有においても、自然服を著す。なにものか諸法不生の性なる、前代未聞の問いです、聞いたふうなこと、見たふうなことではない、是れ何物か恁麼来と、まったく疑問になり終わって問う、袈裟角を示す、他なしを知るんです、如何なるか聖諦第一義と、梁の武帝問うのに、達磨太子廓然無聖は、からりとして別段のものなし、なんにもないよ、個々別々だという。帝かなわず、自分の思想妄想辺に答えを出して貰えなかった、俗人一般まさに梁の武帝です、尊者はそうじゃなかったです、別段のものなしこれと示すのに、袈裟角を指す、そうかというんです、わが求め来たったものこれ。何物か諸仏菩提の本性なる、袈裟というそれ如何というのでしょう、朕に対する者は誰そ、知らないという、阿難袈裟角を引く、和修大悟す。
いいですか、大悟すとは認識の牙城、知っている自分を明け渡すんですよ、もって正法眼蔵ねはん妙心を付嘱す。

万仭巌上、無源水、石を穿ち雲を払って湧沸し来たる。雪を散じ花を飛ばして縱い乱乱たるも、一条の白練塵埃を絶す。

仏教についても座禅と見性だろうが、勉強しようがちょっとかじろうが、知識もノウハウもわんさか手に入る、それがなんにもならぬことを知る、百人あるいは千人に一人ですか、思想辺こうだからこうあるべきの横滑りじゃ、どうにもならんです。商那和修尊者は、すなわちこれを卒業したんです、万仭巌上です、自ずからなるを無源水、だからとかゆえにが失せた。築著荊棘を払い、世間常識仏はかくあるべきを、ぶち破って湧沸するんです、でなくば説得の価値もないんです、たいてい匙を投げて、かってにさらせと云いたくなる。そうして大悟するに、あるいはまったく元の木阿弥です、是非善悪によらぬただの人です、人間200%ですよ、そりゃもう押さえが利かぬ、というんとは違うが、なんでもありです、雪を散じ花を飛ばして乱乱です、しかも一条の白練、まっしろい練り絹です、塵埃を絶す、いずれのところにか塵埃をしかん、さっぱりとっつかんのですよ、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけり、世間一般とちがうのはまったく忘れ去って、法そのものなんです。
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by tozanji | 2005-09-15 00:00 | 伝光録


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