第六章

第六章

第六祖、弥遮迦尊者、五祖因みに示して日く、仏云はく、仙を修し小を学するは、縄の牽挽するに似たりと。汝自ら知るべし。若し小流を棄てて頓に大海に帰せば、当に無生を証すべし。師聞きて契悟す。


師は八千の仙人の長であった、一日衆を率いて提多迦尊者を礼して日く、我むかし師と同じく梵天に生まれ、我は阿私陀仙人に仙法を受け、師は十力の弟子となって、禅を修す。すでに六劫を経たりと。尊者日く、支離として劫を累ぬ、まことなるかな、虚ならず、汝今邪を捨てて正に帰して、仏乗に入るべし、むかし阿私陀仙人、我に記を授けて、六劫ののち同学に遇いて無漏果を証すべしと、尊者時に出家授具す、乃至大神通を示して、余の仙衆八千もまた出家す。尊者示して日く、仙を修し小を学するは、乃至師聞きて契悟す。人を説得するには大物を相手にしろとは、老師がよく云った、というのは大物は自分の至らぬことを知ると、尽くさぬもの、見習い中はまだなにかあると思っている、たいてい説いても無駄だ。仙を修するとは、インドの遠いむかしではない、今もって大小の仙術です、あやしげな思想分別、あるいは無知のわざもですが、科学哲学文学歴史という一切合財、仙であり小なんです、縄のひきまとうに似たり、尽くしてのち隙間風、支離として劫を累ぬ、まことなるかな、虚ならずと云ってくれる人が欲しいんです。無漏果が欲しい、もはやそれしかない、大安心です、頓に大海に帰する、でなけりゃ死んでも死に切れんです。無門関はいここにありますと示されて、乃至契悟す。

縱い連天秋水の潔き有るも、何ぞ春夜の月の朦朧たるに如かん、人家多くは是れ清白を要す、掃い去り掃い来たるとも心未だ空ならず。

仙を修し小を学するとは、人みな葦の髄から天井を覗くようなことするんでしょう、ついに得たり、みな人の得がてにすとふ、うずめ子ですか、そら楽しいたって、はたして辺りをへいげいしてもって、さてどうでしょう。たとい連天秋水の潔さあるも、歌の道に秀でさあて何を歌う、そっぽ向いた風景ですか、ノ-ベル賞博士の世界平和ですか、がきみたい妄想中のあんちょこ、そういうのいったんかなぐり捨てて、宇宙風呂ひと風呂どうですか、なんぞ春夜の月の朦朧たるにしかん、自分という箇の形骸うせて、ものみな成仏、平和を願うふりするんじゃなく、和という花に咲き開く。人家多くはこれ清白を要すと、しゃばのことみんなそうです、時時につとめて払拭せよ、でなくばという、人間失格だ、勤倹貯蓄、いえさ遊びほうけるんだって、計算ずくですか、死ぬまでそんなことやってて、老いさらばえて棺桶に入るんですか、妄想に吸い尽くされた、骨皮筋右衛門、心未だ空ならず、いたらずと知ったら潔く頓に無生の法です。
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by tozanji | 2005-09-18 00:00 | 伝光録


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