第十一章

第十一章

第十一祖、富那夜奢尊者、合唱して脇尊者の前に立つ。尊者問いて日く、汝何れより来たる。師日く、我が心往に非ず。尊者日く、汝何れの処に住す。師日く、我が心止に非ず。尊者日す、汝は不定なるや。師日く、諸仏も亦然り。尊者日くう、汝は諸仏に非ず、諸仏も亦非なり。師此の言を聞いて、三七日の修行を経て無生法忍を得たり。尊者に告げて日く、諸仏も亦非なり、尊者に非ず。尊者聴許して正法を付す。


脇尊者到りて一樹の下に憩ふ、右手に地を指して衆に告げて日く、この地金色と変ぜば、まさに聖人ありて入会すべしと、云い終わりて地金色に変ず、時に長者の子富那夜奢というものあり、合唱して立つ。尊者偈を説く、此地金色に変ず、預め聖の至る有る得を知る、当に菩提樹に坐し、覚華して成り已るべし。夜奢また偈をもって答え、師金色の地に坐し、常に真実の義を説く、回光して我を照らし、三摩諦に入らしむ。三摩諦とは三昧無心に入ること、すなわち得度出家、仏戒を授ける。
どこから来た、心は往来のものではない、どこに住んでいる、心は止まるものではない、では定まらないのか。そうだ、諸仏もこのようにある。どうですかこれ、実にこのように云う一般人て、そうはいないです、無心という、応無所住而生其心という、かつてまさに箇のありようこれ。ですが、尊者これを聞いて、汝は諸仏にあらず、諸仏もまた非なり、たといそうではないという。三世の諸仏知らず、我がありようこれ、仏これという、知っている分が嘘です、未だ本来に住んでいない、忘れ去っていないんです。よって三七二十一日の間、修行してついに忘我、本来まっただ中です、諸仏もまた非なり、標準が失せるんです、尊者にあらず、ついに独立人です。尊者聴許して正法を付す。

我が心仏に非ず亦汝に非ず、来往従来此の中にあり。

自分とは何かというんでしょう、知らないんです、ちらとも知っている部分は、ただ日常便宜の故にです、それも絶え間ない変わって、しかも何不自由しないです、達磨の不識花のように知らないという、天地宇宙これにおって成り立っています、早く成仏して下さい、無自覚の覚ですよ、心仏にあらず、亦汝にあらず、住む所無うしてその心を生ずという、これがありよう、云われてみりゃあまさしくその通りってわけです、往来従来この中にあり、行くも帰るも跡絶えて、されども法は忘れざりけり、はいでは法ってなんですか。
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by tozanji | 2005-09-23 00:00 | 伝光録


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