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第十二章

第十二章

第十二祖馬鳴尊者、夜奢尊者に問ふて日く、我れ仏を識らんと欲す、何物か即ち是なる。尊者日く、汝仏を識らんと欲す、識らざる者是なり。師日く、仏既に識らず、焉ぞ是を知らんや。尊者日く、既に仏を識らず、焉ぞ不是を知らん。師日く、此は是れ鋸の義。尊者日く、彼は是れ木の義。復た問ふ、鋸の義とは何ぞ。師日く、師と平出せり。又問う、木の義とは何ぞ。尊者日く、汝我に解せらる。師豁然として省悟す。


師はまた功勝と名づく、有作無作、諸の功徳をもって最も殊勝となすを以て名づく。夜奢尊者に参じて、初めにこの問いがあった。仏を知ろうとする、何ものか是れ仏、これはだれしも問うところです、仏とは何か、ほどけば仏、だれに頼まれもしないのに自縄自縛の、その縄をほどく、ほどき終わればもと仏、自縄自縛の縄=自分という、ほどき終わればもとなんにもないんです。知らざるものこれです。知るという自縛の縄ですか、これたとえ話じゃないんです、識らざるもの是れ、まさにこうなんです、他なしの実際、本体です、それを仏とは何か、仏教とはという観念知識です、五蘊こんぐろまりっとの交通整理として求める、それしかできない、世間教育の不実です、だからどうしてもその延長上に求める、仏すでに知らず、知らないものをどうして知ることができる、尊者日く、なんぞ不是を知らん、そんなこと必要がないんです。観念知識としては、のこぎり談義だというんです、山と谷ああいえばこういうんですか、見た目たしかにそうです。尊者日く、そうじゃない木の義だ、おまえの本来ありようの上にという。鋸の義とは何か、師と平出するが故に、そうとしか映らない不都合です、でもって木の義とは何ぞと聞く、のこぎりの延長です、汝我に解せらる、一目瞭然事のあることを云うんです、さすがに並みの凡くらと違う、豁然大悟するんです、すばらしいです、たしかにこういうことがあったんです、今でも起こります。鋸談義はすたれもしようが、木の義は元の木阿弥。

野村の紅は桃華の識るにあらず、更に霊雲をして不疑に到らしむ。

野村の紅は桃華の知るにあらず、自然というものの実体です、それを心行く味わうのは私どもです、いいなあすばらしいなあという、人生の活力であり慰めです、でもそれを汚してはならんです、本来そのもの、100%200%こうあるべきです、100%200%こうあるのに、就中味わい切れない、まずもって自分という、自縄自縛の縄をほどいて下さい、ほどき終わって自性霊明です、なんのフィルタ-もなしに見て下さい、更に霊雲をして不疑にいたらしむ、はいそうです、これが仏教です、仏という元の木阿弥、あらゆる一切が去来する、無限の楽しみをもって生涯して下さい、正に馬鳴尊者、まっぱじめっからこれです。頼もしいですね。
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by tozanji | 2005-09-24 00:00 | 伝光録


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