第十五章

第十五章

第十五祖、迦那提婆尊者、龍樹大士に謁せんとし、将に門に及ばんとす。龍樹是れ智人なりと知りて、先ず侍者を遣はし、満鉢の水を以て、座前に置かしむ。尊者之を覩て、即ち一針を以て投じて、之を進めて相見し、欣然として契会す。


師姓は毘舎羅、善行を求め弁論を楽しむ、善行また福業という、尊者の妙法を説くを聞き、人互いに云うには、人に福業あるは世間の第一なり、いたずらに仏性を云う、だれかよく之を見んと。龍樹日く、汝仏性を見んと欲せば、先ずすべからく我慢を除くべし、人日く、仏性は大か小か。龍樹日く、仏性は大にあらず小にあらず、広にあらず狭にあらず、福なく報なく、不死不生なり。人その理の勝れるを知りて、初心を廻らす。その中の大智慧、迦那提婆、龍樹大士に謁す、乃至欣然として契会す。即ち半座を分かつ。あたかも霊山の迦葉の如し。龍樹説法す、座を起たずして月輪の相を現ず。師衆会に云いて日く、これはこれ尊者仏性の体相を現じて、以て我らに示す。何をもって之を知る。けだし以んみれば、無相三昧は形満月の如し。仏性の義廓然虚明なりと。また偈を説いて日く、身円月の相を現じ、以て諸仏の体を表す、法を説きて其形無し、用いて声色に非ざることを弁ず。かくの如く師資分かちがたし。
弁論大知慧満鉢の水に一針を投ず、乃至欣然として契会すと、かつてこういうことがあり、今後また必ずあると、福業をもっぱらにすること、世間の為であり、報いてまた福を招くはずと、行ないがたく、たとい一心に行ずるとて、汝仏性を見んと欲せば、先ずすべからく我慢を除くべしという、たといこれがたがを外す、人間本来いいことしいでは納まらんです、共産主義の嘘ばっかり
も、キリスト教の最後の審判も、自縄自縛の縄ですか、目的のためには手段を択ばぬ不都合、ついには悲惨無惨です。福業果報も罪少なしといえどもまた同じ轍。仏性は大か小かと問う、大にもあらず小にもあらず、広くもなく狭くもなし、福なく報なく、不死不生です、これ大安心です、もとあるがようの大海に帰る、しかも満水の鉢には一針を投ずる知慧、いいですかもとのありようといい、ただ坐ってりゃいいという、2チャンネルも学者坊主も同じこってす、知識の羅列してないで、どうか一針を投げ入れて下さい。でないとあっはっはどうみたって様にならんですよ。

一針釣り尽くす滄溟の水、獰龍到る処身を蔵し難し。

一針釣り尽くす滄溟の水とは、これ只管打坐です、あらゆる一切を尽くすよりないんです、この肝心を怠って伝光録もくそもないんです、祖録を解説して、むさくるしい阿呆面さらすよりは、そりゃ立ちん棒して炎天下銭稼いだほうが、百倍も清潔ですか、ほんに腹立つなあまったく。まあいいか仏教のぶの字もない宗門、どこへ向かって腹立てたって、せいぜい逆恨み食らうだけだ。獰龍という、これ煩悩ですか、煩悩に真っ正面する獰龍ですか、さあどっちでしょう、そりゃあ語の響きで云えば、なんて云わずに、答えを出して下さい。ついに得る月輪=さあ自分を観察しないゆえに満月ですよ、学者坊主も2チャンネルも夢にも知らんやつ、四智円明の月冴えん、たとい龍樹には見えず、半坐を分かつ弟子これを示す。
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by tozanji | 2005-12-10 00:00 | 伝光録


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