第十八章
第十八祖、伽耶舎多尊者、僧伽難提尊者に執持す。有る時風殿の銅鈴を吹くを聞く。尊者師に問いて日く、鈴の鳴るや、風の鳴るや。師日く、風に非ず、鈴に非ず、我心の鳴るのみ。尊者日く、心とは復た誰ぞ。師日く、倶に寂静なる故に。尊者日く、善哉善哉。吾が道を継ぐ者は子に非ずして誰ぞ。即ち法蔵を付す。 師姓は鬱頭籃。父は天蓋母は方聖、大神あり鏡を持つを夢に見て娠む、七日にして生まる。肌体瑩として瑠璃の如し、未だかつて洗浴せず、自然に光潔たり。生まれる時より一円鑑あり、常に伴う、閑静を好み、世縁になじまず。僧伽難提尊者行化のついで、忽ち涼風あって衆を覆う、心身悦適すること常にあらず。これ道徳の風なり、聖人あり、出世して祖灯を継ぐべしと云って、諸方を徘徊して捜す。一童子あり、円鑑を持して尊者の前に至る。尊者問いて日く、汝幾歳ぞ。日く、百歳。尊者日く、汝なほ幼し、何ぞ百歳と云うや。日く、我れ理を会せず。正に百歳なるのみ。尊者日く、汝機を善くすや。日く、仏のたまはく、若し人生きて百歳なるも、諸仏の機を会せずんば、未だ生きて一日にして、之を得て決了することを得るにしかずと。尊者日く、汝が手中のもの、まさに何の所表ぞ。童子日く、諸仏大円鑑、内外に瑕翳無し、両人同じく得見し、心眼皆相似たり。父母この語を聞いて出家せしむ、尊者具戒して、伽耶舎多と名づく、有る時、風の銅鈴を吹くを見て、乃至法蔵を付す。彼の円鑑童子出家せしとき、忽然として見えず。 一円鑑という、あるいはこれを伴う者幾人か、諸仏大円鑑、内外に瑕翳なし、両人同じく得見し、心眼皆相似たり、神童の上を行くんですか、たとい目には見えねども、見ゆる如くにこうあるっていうのは、たしかにあります。童子のたとい仏知慧、諸仏の行事かくの如しと、大人が迷い右往左往の間、実に掌さすんです、すべての童子赤ん坊が、きっと多少ともそうなんでしょう。これを大円鑑と伴い行くのはまた別ですか。そうしてこれは風動幔動の則です、右往左往の凡俗には就中手に入らんです、風も鳴らず、鈴も鳴らず、心鳴るのみ、心という身心ですよ、こちいがこう鳴り動くんです、倶に寂静なる故に、自分というものまったくない故にです、これにて一件落着です、人生も世界も歴史もな-んもかもですよ。さあどうぞおやり下さい、たとい神童ならずとも同じこと。そうして出家するに従い、円鑑見えず、すなわち身につくんです、元の木阿弥ですよ。 寂莫たる心鳴響万様たり、僧伽と伽耶と及び風鈴と。 ふ-んなんかこれいいですねえ、羅漢さんの仲間になって、五百羅漢一千羅漢、毎日このように過ごしている、なんともいえん済々です、理想生活祇園精舎、彼は彼、我は我、風鈴と風と、意見思想に拠らない、だれどのようにあろうとも寂莫ぴったりぴったりです、林の中に入ると、みなまたそのようですし、草もまた花もです、みな心です、響き万様が、頓に完結していて、他云うなしの、一体に風であり風鈴であり我が心です、たとえは悪いけれども初めて三次元、あるいは四次元世界ですか、到らずは二次元を這いずり回る、べったりですよ。
by tozanji
| 2005-12-13 00:00
| 伝光録
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