第二十二章

第二十二章

第二十二祖、摩奴羅尊者、婆修盤頭に問いて日く、何物か是れ諸仏菩提なる。
尊者日く、心の本性即ち是れなり。師また日く、如何なるか是れ心の本性。尊者日く、十八界空是れなり。師聞いて開悟す。


師は那提国常自在王の子なり、年三十にして婆修盤頭に遇う。常自在王に二子あり、一を摩訶羅、次を摩奴羅と名づく。王、尊者の仏記したまう、第二の五百年に一の神力の大士あり、出家して聖を継ぐと、即ち次子摩奴羅これなりと云うを聞いて、この子を捨てて沙門とす。善哉善哉大王よく仏旨に従う、即ちために授具す、これより婆修盤頭に給仕す、あるとき問うて日く、何物か是れ諸仏菩提なる、乃至開悟す。何物か是れ諸仏菩提なる、だれしも一度は必ずこう聞きます、ほんとうのことはなにか、自分はどうあったらいいか、仏とはなにか、それに答える人がいない、あるいはせっかく問いながら、なおざりにする、人もそうなら自分もといって、じきに忘れてしまう。仏記して聖を継ぐべしという、大士大人物が必要なんですか、いいやおぎゃあと生まれて、だれしも七歩歩んで天上天下唯我独尊です、だれあって本当を問う、何物か是れ諸仏菩提なる、というとき無位の大人です、尊者答えて日く、心の本性即ち是れなり。はいこれここにありますよ、本性もと究尽菩提、まったく他にはないと示す、これあってはじめて種々雑多、世の中一般があるんですよ、そうかと云うんです、でもその心の本性とはいったい何か、十八界六根六識六境の十八という、ものみな空です、見えるものないんです、これとさし示すなし、頼りの杖=200%ものみなですか、頓に無生を知る、これを聞いて開悟するんです。
仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘れるなり。はいまったくに単純なただこれ。

舜若多神は内外に非ず、見聞声色倶に虚空なり。

しゅんにゃたとは虚空を司る神、まあ空ですか、空というと空という固定観念、そういうらしいものがあると思うんです、そうではあい、そのように思う自分を空じ去るんです、自分という架空請求を免れる、ほんとうに自由になるんです、あれはいけない、これは悪い、仏はこうある、仏教の物差しは、ものみな空だからという、だから故にのかすがいを外す、先ず自分という内外が失
せる、妄想が悪い、声聞縁覚がどうのという、どうのというこうのという、そのもの200%、ないものには悩まない、あるいは五蘊皆空という、かすっともかすらないんです、いったん忘れるということあって、長長出させる、坐禅という、どこまで行っても退歩の術ですか、いいえ十八界空、自分という問題にならんのですよ。

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by tozanji | 2005-12-17 00:00 | 伝光録


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