第二十四章

第二十四章

第二十四祖、師子尊者二十三祖に問いて日く、我れ道を求めんと欲す、当に何の用心かあるべきや。祖日く、汝若し道を求めば、用心する所無からん。師日く、既に用心無し、誰か仏事を作さん。祖日く、汝若し用うること有らば、即ち功徳に非ず、汝若し作すこと無くんば、即ち是れ仏事なり。経に日く、我が作す所の功徳、而かも我所無きが故にと。師是の言を聞き已りて、即ち仏慧に入る。


師、姓は婆羅門、もと異道を学して博達強記なり、後に二十三祖に参じて、今の問答あり、直に無所用心によって、頓に仏慧に入る。二十三祖日く、我が滅後五十年、まさに難の起こることあり、汝が身の上にあらん、しかりと雖ど、汝我が法宝を伝持して、未来際を化すべしと。師行化のついで、婆舎斯多を接して、難あり我が身に起こらん、おやしくも免るべからず、汝我が道を持すべしといって、衣法ともに授く。国王あり、仏に帰依す。外道乱を起こして、罪を仏子に帰す。国王、伽藍を破棄し、僧を追い、剣をとって師子尊者に至る。問いて日く、師蘊空を得るや否や。師日く、已に得たり。王日く、生死を離れるや否や。師日く、已に生死を離。王日く、已に生死を離るれば、我れに頭を施すべし。師日く、身は我が有に非ず、何ぞ頭を惜しまん。即ち刃を揮いて師の頭を断る。法難という、ようやくインドの仏教は衰退するんですか、仏教の不備ではないです、一般多数の趣むく所です、流行り廃りですか。以後のヒンズ-教が、仏教のデカタンス、インドの聖者というオペラ歌手のような、他に示すための人格です、無心を説きながら有心です、完成を云い現世利益です、そうではない、捨身施虎です、たとい怒り心頭の国王だろうが、その身くれてやる、ために別に立派な人格も、オペラ歌手もいらんです、これ参学の秘訣、坐然のありようです。我れ道を求めんと欲す、なんの用心かあるべき、どうしたらいいか、心の用いようを聞く、これに対して、若し道を求めば、用心する所無からん。心を用いるんではない、あるいは用心しっようとするそのもの。用心なしでは、だれか仏事をなさん。さあこれが普通の人の問いです、有心の問いなんです、学者説教師という、まさにこれを出るなし、そりゃどうしようもないです、オペラ歌手するしかない、汝若し用うること有れば、即ち功徳にあらず。若し作すこと無くんば、即ち是れ仏事なり。はいこれが仏のありよう、捨身施虎です、百尺竿頭歩一歩です、経に日く、我がなす所の功徳、しかも我所無きが故に。

若し空を顕はさんと欲せば須らく覆ふこと莫るべし、沖虚浄泊本来明らかなり。

密教だの秘伝だのいうことなし、一器の水が一滴漏らさず一器になどいう、それは世間事です、免許皆伝という資格技術の問題ではない、先師室内もだが、明けっぴろげで、だれかれどうした、坐談におまえはどうとやる、人のことは我がことなんです、それを師家だのおれはだのいう輩は、必ず秘伝めかす、よくわからないのと、人に盗まれたら商売上がったりという、宗門の薄汚い我田引水、自閉症ですか、税金のかからないパイ、なるたけ他に食われぬよう、苦労の末の坊主だのと、ほんに出家希望者を扱う、宗門人のむごたらしいほどの扱いに、あっけにとられたことがあります、その弟子助けを求めて来たが、お寺さんになりたいって他なく、わしらには関わりなく。可哀想なこってす。仏教のぶの字もない宗門、もはやこれを出るより方法はないか。いえ宗門にあろうが、ホ-ムレスだろうが、沖虚浄泊隠れるところないんです、どこへ行って何云おうが、じきに賛成大賛成の集団になっちまう、うるさったいってわけでもないが、悪食ばさら、助平坊主やってます、本音だろうが、嘘八だろうが、そりゃまた同じこってすよ、そうねえ人間嘘は付けない。
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by tozanji | 2005-12-19 00:00 | 伝光録


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