第二十七章

第二十七章

第二十七祖、般若多羅尊者、因みに二十六祖日く、汝往事を憶うや否や。師日く、我れ遠劫中を念ずるに、師と同居す。師は摩訶般若を演べ、我れは甚深修多羅を転ず。今日の事、蓋し昔因に契えり。


師は東インドの人なり。時に不如密多、東インドに至る、かの王を堅固という、外道を奉じ、長爪梵志を師とす。尊者至らんとして、王と梵志と同じく白気の上下貫くを見る。王日く、これ何の瑞ぞや。梵志予じめ尊者の境に入るを見て、王の善に遷らんことを恐れ、すなわち日く、これは是れ魔来たると。不如密多まさに都城に入らんとす、弟子とも鳩首して日く、我れら各呪術あり、天地をも動かし水火にも入るべし、何を患えんやと。尊者宮墻に黒気あるを見て、すなわち日く、小難のみ、王処に至る。王日く、師来たりて何をか為さんとす。尊者日く、衆生を度さんとす。日く、何の法をもって度せん。尊者日く、各その類をもって度せん。梵志怒りに耐えず、幻法をもって大山を尊者の頂上に化す。尊者これを指さす、たちまち彼の衆の頭上に在り。梵志ら恐れおののいて尊者に投ず、尊者愚或を哀れんでこれを指さす、化山したがい滅す。すなわち王の為に法要を説いて、真乗に趣かしむ。また王に云う、この国まさに聖人ありて、我れに継ぐべし。時に婆羅門あり、幼時に父母を失いて名氏を知らず、あるいは自ら瓔珞という。人呼んで瓔珞童子という、市井に遊行し乞食して日を渡る。人、汝行くこと何ぞ急なると問えば、汝行くこと何ぞ慢なると答え、何の姓ぞと問えば、汝と同姓という。王尊者と同車して行く、瓔珞童子稽首す。尊者日く、汝往事を憶ふや否や。乃至けだし昔因に契へり。尊者王に云いて日く、この童子は他に非ず、大勢至菩薩これなり、この聖の後に二人を出さん、一は南インドを度し、一は震旦、中国に縁ありと。ついに昔因をもっての故に、般若多羅と名づく。
各その類をもって度せんという、これ仏教の常套手段というより、仏教として別に何かあるもんじゃないんです、仏教=ダイアロ-グと云っていい、こうあるべきどうせにゃならんの問題じゃない、しゃくを以てしゃく(金に昔)に就くという、相手の愚或の、行き届かぬところを示す、大山をもってすれば、それを彼におっかぶせりゃいい、その衆に乗せりゃもっと効果的でしょう、戦争は悪い平和はいいという、はいそのとおりですよという、現実はどうなります、戦争は悪い平和がいいが、大山になってのしかかって、ちっとやそっとじゃ動きが取れん日本でしょう、愚或を指さして、したがい消滅です、ほかそんなことばっかりというのは、世間世迷いごとです、自分という架空請求の上に成り立っている、いえそうと思い込むんです、父母幼にして失われ、名も知らぬ、かえって自分という立脚点を免れる、家なく遊行の自在ですか、ですが尊者、往事を思うや否やと問う、来し方行く末として問うんでしょう、もしちらともあればこれ業障です、むかしのことなんて思わないよという、如来まさに追憶なしです、ところがそやつを通り越して、師と同居す、同安居ですか、今の下士官修行新兵さんはつらいよねの、僧堂安居、同じ釜の飯食ってじゃない、そりゃ追憶倒れ、そうじゃない、師は魔訶般若を説き、我れは甚深修多羅を転ずと、ただこうしてこのとおりあるんです、山水長口舌と敢えていう、たった一つことです、塵未来済こうしているというんです、ゆたらス-トラ、学者が論じ坊主ぜにもうけとは無関係です。

潭底の蟾光空裏に明きらかに、連天の水勢徹昭して清し。再三撈漉して縱ひ有ることを知るも、寛廓旁分虚白にして成る。

潭は深い水蟾は龍です、この一連瓔珞童子がまさに答える、師と同居す以下です、情識妄想の取り付く島もない、もとのありよう七通発達です、撈漉は水中に入ってものを取ること、学者徒労は猿の月影を追うという、水に映った月を取ろうとして再三するわけです、たとい本来の月、あるいは両箇たるを知るも、これを用いる、廓然無聖です、がらりこうあって個々別々、旁分は事物を明きらかにする、科学の追求真理という、一神教成れの果てとは違うんです、虚白自分というものなくしてものみな、ぱ-らみ-た-摩訶般若波羅蜜多彼岸にわたる=知慧なんです、仏知慧として別にあると思っている間は、そりゃ届かんです。

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by tozanji | 2005-12-22 00:00 | 伝光録


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