第四十七章

第四十七章

第四十七祖悟空禅師丹霞に参ず。霞問ふ、如何なるか是れ空劫以前の自己。師応えんと欲す。霞日く、汝さわがしきこと在り、且く去れ。一日鉢盂峰に登り、豁然として契悟す。


師諱は清了、悟空は禅師号なり。その母赤ん坊を抱いて寺に入り、仏を見て喜び眉睫を動かす。師十八にして法華を講ず。得度して成都の大慈に往き、経論を習い大意を領ず。丹霞の室を叩く。霞問う、如何なるか是れ空劫以前の自己、乃至豁然として契悟す。ただちに帰りて霞に侍立す。霞一掌して日く、まさに謂えり爾有ることを知ると。師欣然として之を拝す。翌日霞上堂して日く、日孤峰を照らして翠に、月溪水に臨んで寒し、祖師玄妙の訣、寸心に向かいて安んずる莫れ。即ち下坐。師直に前んで日く、今日のしん坐更に某甲を瞞ずることを得ず。霞日く、爾試みに我が今日のしん座を挙し来り看よ。師良久す。霞日く、将さに謂へり、爾瞥地と。師便ち出ず。遍歴して長蘆山に至り、その跡を継ぐ。
如何なるかこれ空劫以前の自己、なんじさわがしと、どうですかこれ、空劫以前の自己といったら、空劫以前に帰って下さい、自分をとやこう云っていたら間に合わないですよ、たとい会に誇り悟に豊かにしても、そういうものと見做すなにかしらあったら騒がしいんです、安心の処がないんです。ところが丹霞子淳の偈は、日は上り月下りして祖師玄妙の訣、寸心に向かいて安んずること莫れとあります、これ我が意を得たりで、更にそれがしを瞞ずることを得ずと云う、どうですか、相手に肯定されたら、他に瞞ぜられますか、では道うてみよと、丹霞和尚、師良久す、まさに謂へり、そうかい瞥地ちらっとは見たか、というんです。是という、不是という、さあどうですか、余後の問答はないんです、辞し去って唯一人の天下です、これわかりますか、たとい大悟徹底の人も、まったくわからんですよ。よくよく看取し去って下さい。

古澗寒泉人疑はず、浅深未だ客の通じ来ることを聴さず。

古澗は谷の水、師後に出世して上堂日く、我れ先師の一掌下に於て技倆ともに尽きて、箇の開口の処を覓むれども得べからず。いま還て恁麼の快活不徹底の漢ありや。若し鉄をふくみ鞍を負うことなくんば、各自に便りを著けよ。実にそれ祖師の相見する所、劫前に歩を運び、早く本地の風光を顯はし来る。若し未だ此田地を看見し得ずんば、千万年の間坐じて言うことなく、兀兀として枯木の如く死灰の如くなりとも、是れ何の用ぞ。しかも空劫以前と云うを聞きて、人々あやまりて思うことあり。いわゆる自もなく他もなく、前もなく後もなく、呼んで一とも云うべからず、二ともいうべからず、同とも弁ぜじ異とも云はじ。是の如く商量計度して、一言も道いえば早く違いぬと思い、一念も返せば即ち背くべしと思うて、妄りに枯鬼死底を守り死人の如くなるあり。或いは何事として相違ことなし、山と説くも得べし、河と説くも得べし、我と説くも得べし、他と説くも得べし。また日く、山と道うも山に非ず、河と道うも河のあらず。唯是れ山なり、唯是れ河なり。かくの如く云う、これ何の所要ぞ。
悉く皆邪路に趣く。或いは有相に執着し、或いは落空亡見に同じくし来るなり。此田地あに有無に落つべけんや。故に汝が舌を挿さむ所なく、汝が慮りを廻らす所なし。且つ天に依らず地に依らず、前後に依らず、脚下踏む所なくして眼を著けて見よ。必ず少分相応の所あらん。又日く云々と。

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by tozanji | 2006-01-11 00:00 | 伝光録


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