第十三則 臨済瞎驢

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 衆に示して云く、一向に人の為に示して己れ有ることを知らず。直に須らく法を尽くして民無きことを管せざれ。須らく是れ木枕を拗折する悪手脚なるべし。行に臨むの際合に作麼生。

挙す、臨済将に滅を示さんとして三聖に囑す。吾が遷化の後、吾が正法眼蔵を滅却することを得ざれ。聖云く、争でか敢えて和尚の正法眼蔵を滅却せん。済云く、忽ち人有って汝に問はば作麼生か対へん。聖便ち喝す。済云く、誰か知らん、吾が正法眼蔵這の瞎驢辺に向かって滅却することを。

 臨済院の義玄禅師は黄檗の嗣、門下に三聖慧然ほか十余の神足を出し、臨済宗の祖。行に臨むの際、臨終の時です、死ぬまぎわまで為人のところこれ仏祖世の常、一向に人の為に尽くして己れ有ることを知らずです、自分の中に首を突っ込んで窒息死、自殺志願というよりただもう情けないんですが、そんな現代人に、本来こういう生き方のあるのを知らせたいです、自殺するんならアフガンに地雷撤去に行くとか、自爆テロでキムジョンイルをやっつけるとかさ、一生にたったいっぺん他の為にする、でなかったら生きた覚えもないことは、自殺したいというそいつが証です。
 為人のところ広大無辺、自分という袋小路、アッハッハ単純明解な理由ですよ。法を尽くすとは大死一番です、大活現成は民というコンセンサスから飛び出しちまうんです、我と有情と同事成道です、だからといって人間なんです、為人の所と帰り来るんです、臨済の大悟と滞るなしですよ。三聖に囑す、おれの死んだあとおれの正法眼蔵をぱあにしないでくれとは、世間流という悟りの悪い我妄に聞こえ、なんでえ臨済ともあろうもんがというわけです、ところがまったく違うんです。三聖に一掌を与える、のうのうとお寝んねしてるんなら、枕けっぽる悪手却、自分の死ぬなんてことこれっぽっちも考えてないんです。
 どうしてぱあにしましょうや、ふーんなら忽ち人問えば汝なんて答える。喝する。
ちえせっかくわしの正法眼蔵は、この瞎驢めくらのろばです、唐変木がぱあにしちまいやがる、わっはっは臨済安心して死ねるんです。
 そうですよこれ人間本来、一器の水が一器に余すところなくなど、そんなけちなこと云ってないんです、左右を見回してごらんなさい、臨済まさにかくの如しです。

頌に云く、信衣半夜蘆能に付す、攪攪たり黄梅七百の僧。臨済一枝の正法眼、瞎驢滅却して人の憎しみを得たり。心心相印し祖祖灯を伝ふ。海嶽を夷平し、鯤鵬を変化す。只だ箇の名言比擬し難し、大都そ手段飜倒を解す。

 蘆能は蘆行者六祖大鑑慧能禅師、黄梅山大満弘忍祖の法を嗣ぎ、お釈迦さまから伝わったという衣を持して夜半密かに忍び出る、これを知って七百の僧右往左往、臨済正法眼蔵、阿呆のろばにつないで他の憎しみを買うと、まあまさに鳴り物入りですか。仏とはもとだれしもちゃーんと備わりながら、夢にも見ぬ思いも及ばぬものです。夢に見る思い及ぶものを、一枚でも二枚でもひっぺがして行かにゃならん。手段悪辣臨済棒喝も為にあるんです、こっちとしちゃあ噛んで含める如くするのに、なんでたんびにそっぽ向くんだ、匙を投げたってのが毎回の感想です。夷えびすはまたたいらぐと読む、大海から山嶽までも平らげ、こんは昆に魚、北冥に大魚あり変じて鵬となるとさ、鵬は鳳と同じくおおとり、変化へんげす、ああでもないこうでもないをまったくに収める、アッハッハ轟沈させるんですな、だからって海嶽も鯤鵬もちゃー
んとあるところが面白い。箇の名言というたった一回きりの手段です、花の綻びるのを見て悟った、だからってことない、門扉に足を挟まれて知った、だからおれもってことないんです。そりゃ通常のこっちゃ駄目だといって、通常もて徹底する、そりゃ臨済ならずともです、人の思惑判断じゃないんです。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-18 07:30 | 従容録 宏智の頌古


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