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第十六則 麻谷振錫

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 衆に示して云く、鹿を指して馬と為し土を握って金と為す。舌上に風雷を起こし、眉間に血刃を蔵す。坐ながらに成敗を観、立ちどころに死生を験む。且く道へ是れ何の三味ぞ。

 挙す、麻谷錫を持して章敬に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振るうこと一下、卓然として立つ。敬云く、是是。谷又南泉に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振るうこと一下、卓然として立つ。泉云く、不是不是。谷云く、敬は是と道ふ、和尚什麼としてか不是と道ふ。泉云く、章敬は即ち是是、汝は不是。此れは是れ風力の所転、終に敗壊を成す。

 鹿を指して馬となし、なんか馬鹿なこと(故事はすなわち馬鹿の始まり。)を云ってんですが、これ平常もののありようと、人みなの持って回る落差ですか、情識界に溺れるのへ手を差し伸ばす。どうしたってそういうこってす。土と思い込む金だという、金と思い込む土だという、ちっとは眼晴ですか。二人の弟子がいて一は坐るに坐ってさっぱりです、一は適当にさぼってらちあかん、二人ともお払い箱にしたい、舌上風雷眉間血刃、アッハッハ匙を投げてなんにも云わんですか。親切この上なしは、是是よしよしといっちゃ春風駘蕩ですか、さあこれなんの三味ぞ、師はこれ三味わしらはしからずと、一向にそんなこたない、たといお経読んだろうが、同じいに三味ですよ。
 麻谷まよく麻谷山宝徹禅師、馬祖道一の嗣、章敬懐輝、百丈ともに馬祖の弟子、ちょっとばかり麻谷の悟るのが遅かったんですか、章敬のもとに行き、禅床をめぐること三匝、匝は三回でいいです、ぐるっと回るんです、そうして錫しゃくは杖の頭に鈴が付いて、托鉢行脚の持ち物、鈴をふるって突っ立った。章敬是是、よしよしと云ったんです。ぶん殴られるの覚悟で命がけでやったんですか、清水の舞台から飛び降りた。捨身施虎は一回切り、食われちまえば跡形も残らない、いえ骨は残ったってそりゃ残骸です、命消える。ところが消えなかった、しめしめってなもんで百丈のもとへ行き、禅床を遶ること三匝、錫を振るい卓然として立つんです、百丈不是。
 章敬は是といったのになんで不是だと聞く、百丈云く、章敬は是汝は不是と。こりゃこれでおしまいなんです、これはこれ風力の所転アッハッハところてん押し出すのは蛇足ですよ。なんの為の仏道修行ですか、禅坊主のありよう、見せるためじゃないんでしょう、わずかに一箇の本来性、満足大安心の故にです、自由の分なければ、馬鹿の薬です。がらくたこさえるだけです。
 成句があるんですな、維摩経方便品に、是の身は作無し、風力の所転なり。楞厳経瑠璃光章に、この世界及び衆生の身を観ずるに皆是れ妄縁風力の所転なり。
 だからといって、この世ははかないというのは俗説です、すなわち200%生死同じなんですよ。

 頌に云く、是と不是と、好し椦きを看るに。抑するに似たり揚するに似たり。兄たり難く弟たり難し。従也彼れ既に時に臨む、奪也我れ何ぞ特地ならん。金錫一たび振るうて太はだ孤標。縄牀三たび遶って閑ざりに遊戯す。叢林擾擾として是非生ず。想ひ像る髑髏前に鬼を見ることを。

 是と不是とよし椦き、きは衣へんに貴、糸のことけんきで罠、罠を設けたというわけではないんですが、ひっかかる間は使い物にならんです。抑揚上げたり下げたり、是と云われれば嬉しく、不是と云われればどうしてだと聞く。是非善悪に関わらずという、自分=知らないという、達磨さんの本来に落着しないかぎり、おれはいいおまえは悪いやるんです、悟っているか悟ってないかやるんです。わかりますかこれ。
 難兄難弟、東漢の陳元方が子長文と、季方が子孝光と、各その父の功徳を論ずるに決せず、太丘にはかる、太丘云く、元方兄たること難く、季方は弟たること難しと。
これまあ参禅にこういうことしている間は、そりゃどうにもならんです、よくよく顧みて下さい、奪おうが従う、ほしいままにしようが、そうやっているそのものなんです、死ぬとはそうやっているものが死ぬんです、でなかったらそりゃ楽ちんです。いえほんとうの安楽に入って下さい、とやこうの自分を脱する、身心ともに解脱する=是非善悪に管しないんです、そうして錫を一下卓然として立って下さい、天地そのものになって遊戯三味です。
 擾は騒がしい、そりゃどこの叢林、僧堂も是非善悪騒がしいですか、良寛さんの叢林は子供たちだったです、これはこれまたどえらい対大古法だったです。いやわしなんぞにはとうていできない、たとい髑髏前に鬼を見る底去って春風駘蕩も、世にいう良寛さんの絵に描いた餅はないです。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
by tozanji | 2005-02-21 09:15 | 従容録 宏智の頌古


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