第二十二則 巌頭拝喝

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 衆に示して云く、人は語を将って探り、水は杖を将って探る。撥草瞻風は、尋常用いる底なり。忽然として箇の焦尾の大虫を跳出せば又作麼生。

挙す、巌頭徳山に到り門に股がって便ち問ふ。是れ凡か是れ聖か。山便ち喝す。
頭礼拝す。洞山聞きて云く、若し是れ豁公にあらずんば大いに承当し難し。頭云く、洞山老漢好悪を識らず。我れ当時一手擡一手捺。

 撥草瞻風という雲水修行をすべからく云うんですが、煩悩の草を撥ね菩提の風を瞻仰すとある、尋常用いる底とは、寝ても覚めてもです、何をしていたろうがこの事です、何をしてはいかんこうあるべきというより、かえって目茶苦茶の方がいい、煩悩を助長するもせんも、そんなふうでは届かない、転んでもただでは起きないふうの参禅ですか、人間いつだって未だしという、いつだって100%是という、ゆえに語をもって探り、杖をもって探るんです、叩かれ払拳棒喝とあって、はあてようやくですか、箇の焦尾の大虫とは虎です、虎は尾っぽを焼いて人間に化けると、こいつを忽然失うには、またまったく別です。
 巌頭禅豁禅師、徳山の嗣、我今初めて鰲山成道の雪峰の兄弟子、くぐつまわしなど云われるんですが、そりゃなかなかしっかりしてます。徳山へやって来て門にまたがり、是れ凡か聖かと問う、虎の前にやって来た、かーつとこれはらわたさらけ出し、どん底からというんですが、虎という自分の形骸なんにもないやつがかつとやるんです、老師の喝で生臭雲水が単から跳び上がったな、障子がふるえる。これ聖か凡か、探竿影草かしゃらくさいか、さすがに巌頭礼拝し去る。洞山は洞山良价和尚でしょう、こりゃまた大物です、豁公は巌頭です、おまえさんでなけりゃとうてい肯がえんという、一喝あるべしといったんですか、超凡越聖の機、襟首とっつかまえて同病あい憐れむですか、いやあのときそんな余裕なぞなかった、一手擡はもたげる一手捺はおさえるです、是れ凡か聖かともたげ、礼拝しておさえ、徳山の喝とどうですか、そうです、もうこれっきりっていうところがいいんですが、どっかくぐつまわし。

頌に云く、来機を挫しぎ、権柄を総ぶ。事に必行の威あり。国に不犯の令あり。
賓、奉を尚んで主驕り、君、諫めを忌んで臣佞ず。底んの意ぞ巌頭、徳山に問ふ。一擡一捺、心行を看よ。

 意言に在ざれば来機亦おもむく、宝鏡三味にあります、その続きは、動ずればか臼をなし、差がえば顧佇に落つ、背触ともに非なり、大火聚の如し。とあります。
自分というものに首を突っ込むとこうなる、手を触れると大火傷ですか、どうしようああしようの参禅を終わりにせんけりゃ、来機またおもむくとは就中いかんです。せっかくのおのれ=来機に蓋をする、いちゃもんつけてしまっては、徳山虎口の門にまたがって、凡聖を問うも無理です。無理をそのまんまむうっとやってごらんなさい、徳山大喝もそよ風とほどに。必行の威もほうほけきょ、不犯の令も風力の所転。賓は洞山そりゃまあお客ですか、主は巌頭。君は徳山、臣は巌頭。どうですか巌頭親切、だれもが一目置く兄貴というわけで、是れ凡か是れ聖か、師は末期の一句を得たりとか、よくやるよってアッハッハおもしろいんです。洞山の、もし豁公にあらずん
ば承当し難しという、よく表われています。徳山渇して巌頭の立場失せたりって、もと立場のないのが仏です、学者仏教私は達磨実在の立場をとってという、すでに敗壊、仏教のぶの字もないんです。一擡一捺心行をみよと、蛇足するのもわかるような気がします、でもってわしは巌頭が大好きです、なぜかって好きなもんに理屈なし。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-27 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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