第二十六則 仰山指雪

c0015568_22191218.jpg

 衆に示して云く、冰霜色を一にして雪月光を交ふ、法身を凍殺し漁夫を清損す、還って賞玩に堪ゆるや也た無しや。

挙す、仰山、雪獅子を指して云く、還って此の色を過ぎ得る者有りや。雲門云く、当時便ち与めに推倒せん。雪竇云く、只だ推倒を解して扶起を解せず。

 清廉の屈原を法身とすれば、清濁時に応ずる漁夫は応身の立場という。屈原は唐の詩人、冰は氷です霜と一色、雪と月光という、どうですか、風景のごとくに心事ありですか、思想観念を絶したさまですか。たしかに自分という一切を空ずる、そりゃ色あり形ありするんですが、大小色彩を絶したものがあります。どっちが大きいどっちが小さい、黒いか白いかと問われて、答えが出ない、知らないというんです。法身という目標もなく清濁という種々雑多もないんです。かえって賞玩に堪えるや否やというところが面白いんです、世間とは観念思想をもってするんですか、雪舟の水墨画も紙と墨を必要とする。とらわれないということあってこれを用いる。色即是空か
ら空即是色です。だからどうだといってつっぱらかるんですか、いえ時によってどうだとやり得るんです。
 仰山きょうさん慧寂禅師はい山霊祐の嗣、雪獅子は雪達磨です、指さしてこの色に過ぎるものありやと示す、これによって悟るものもあれば迷うものもあります。
でも平地に乱を起こすという、一波乱起こさなければそりゃあだめです。でたらめ思いつきじゃない、実にこれに過ぎたる色ありやです。白が明白っていうんじゃないんですよ、知識思想の及ばぬところです、人々看よという。これを聞いて雲門がそん時いりゃ雪達磨蹴倒したものをと云った。雪竇せっちょう重顯禅師は雲門三世智門光祚の嗣、碧巌録百則を著わす。云く、ただ推し倒すことを解して、扶け起こすことを知らんと云った、アッハッハまあそういうこってすか。これがちんぷんかんぷんの人は無縁の人、舌を巻く人は向上の人、雪竇をぶんなぐる底は、さて何人。

頌に云く、一倒一起雪庭の獅子。犯すことを慎んで仁を懐き、為すに勇んで義を見る。清光眼を照らすも家に迷ふに似たり、明白、身を転ずるも還って位に堕す。
衲僧家了いに寄ること無し。同死同生何れをか此とし何れをか彼とせん。暖信梅を破って、春、寒枝に到り、涼飃葉を脱して、秋、潦水を澄ましむ。

 これしきのことにずいぶんご丁寧な頌は恐れ入る、犯すことを慎むとは、雪竇扶け起こすを云い、為すに勇んでは雲門推し倒すを云う、別段仁義のこっちゃないんですが、大死一番して大活現成の伝家の宝刀に譬えた。清光眼を照らすも家に迷うに似たり、坐っていて思い当たることないですか、すべてを尽くして肉は悲しというのは西欧の詩人ですが、どっかお釣りが来る、垢取りせんけりゃならんという感想です。明白身を転ずるもかえって位に堕すの、虚々実々です。どっちがどうこうすべきだの問題ではない、問題ありながら卒業するんですか。完全とは何か、すでに始めっからこのとおり、生まれるから変わらないんです、坐禅をする前と終わった今と同じ、坐禅遍歴もまた同じ、さっぱり進歩も取り柄もなし、さてどうしますか。同死同生いずれ
を此としいずれを彼とす、うっふうこれに参ずるにいいですよ、事は簡単明瞭。
暖信せっかく梅が咲いたのに、寒気襲い、紅葉をひるがえして、寒風潦水水たまりを澄ましむる、はーいどっからどこまで繰り返して下さい、とほほうんざりってのいいですよ、彼岸にわたる法のかい、かいは同じことの繰り返し、アッハッハ吐く息吸う息。
去って下さい。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
[PR]
by tozanji | 2005-03-03 00:00 | 従容録 宏智の頌古


<< 第三十三則 三聖金鱗 第二十五則 塩官犀扇 >>