2005年 02月 06日 ( 1 )

第一則 世尊一日陞座

c0015568_13571341.jpg

従容録 宏智の頌古
万松老人、天童の覚和尚の頌古を評唱する従容庵録

  第一則 世尊一日陞座

 衆に示して云く、門を閉じて打睡して上上の機を接し、顧鑑頻申曲げて中下の為にす、那んぞ曲碌木上に鬼眼晴を弄するに堪えん、箇の傍らに肯わざる底あらば出で来たれ、也た伊を怪しむことを得ず。

挙す世尊一日陞座、文殊白槌して云く、諦観法王法法王法如是。世尊便ち下座。

 頌に云く、一段の真風見るや也た麼しや。(特地に眼を飄入せしむること莫れ、出ること還って難し。)綿々として化母機梭を理む(参差蹉了るを交う。)織り成す古錦春象を含む(大巧は拙の如し。)東君の漏洩を奈何んともすること無し。

 陞のぼる、世尊お釈迦さまが一日座に上る、文殊白槌して、カンと槌を打って大衆に告げるんです、諦観法王の法である、法王法かくの如しと示す、用事が終わった、世尊座を下るというのです。
 挙す、さあどうですかというんです、さあどうですか、お釈迦さんのようになって下さい、他なしです、第一則一番難しいです、通身もって、
「どうですか。」
 という、これができるかできないか。山川草木空の雲も天空の星もぴいと鳴く鳥も、まさにこうあって長口舌、法王法如是と示す、だれあって、人間の如来は人間に同ぜるが如し。
 いったんまず自分を去る、坐っても坐っても自分という従前の我を反芻し、嘗めくりまわして、どうして行かないんだとか、だいぶよくなったとか云っている、あるいはもうすぐという、百年河清を待つです、そうではない諦観です、自分といういらないものを捨てるんです、すると体もなければ心もない、生まれる以前死んだ後です、おぎゃあとこの世に生まれるとは、実にこのように生まれるんです、物心つく以前の赤ん坊は、恐ろしいほどの目をしています、宇宙の一欠片です、これを如来来たる如しといいます、七歩歩んで、六道輪廻を一歩抜け出でて、天上天下唯我独尊事です、文殊白槌して日く、諦観法王法如是、一枚自分というお仕着せですか、着たきり雀を脱げというんです、元の木阿弥はもとこのように現じている真箇です。
たしかに自分がまったく失せる、たとえば映画を見ると画面が自分です、すると見終ってなんの印象もない、覚えていることは思い出せばちゃんとある、哲学文学出身の人が、あれはああでこうでどちらかと云えば駄作でと批評する、このばかったれめがと喝す、あれはああなんだという以外になく、すなわち彼が批評の寸足らずを示す、届かないよというんです。
はたしてわしが世尊陞坐しんぞと読むんですがね、これ可か不可か、あるときは可あるときは不可、いいえ自覚症状なんかないです、多少ともこれが一則に参ずること一生をもてするんです。

門を閉じて、法らしいことのなんにもなし居眠りして上機を接し、機とは機峰だの禅機だのいう、なにそんな特別ないんです、どっかつまってるのが外れているだけです、目から鼻へじゃなく目鼻なし、一から十じゃなくもとぜんたいです、それ故中下も下下もいつか必ず上機です、如来あって如来に同じゆうする他なく。顧鑑頻申は振り返り身ぶりする、つまりだから理屈、間髪を置かずです、渇したり押し出したり、手段するんです、たまたま効くこともある、なかんずくそうは行かんですか、曲碌は今でも坊主が葬式法要に坐す、中国風真っ赤な椅子です、もと自然木を曲げてこさえた、鬼眼晴は、なんしろぶっ殺す以外に方法はないんです、貧乏人からゼニをふんだくる手段です、従前の自分というぬくぬくそこへ収まりついて、悪臭ふんぷんたるパンツをさ、脱いでみないとどっ汚さに気がつかん、どうしようもこうしようもないんです、しばらく匙を投げ。
 さあ文句あるやつは出て来い、他のこっちゃない、なでたりさすったりのしゃば一匁じゃないってこってす、取り付く島もないんです、取り付く島もないとわかったら、半分卒業です、アッハッハ取り付く島もないのほかに、仏も仏教もないんですよ。

 真風見るや、一段とはこの一則です、他にないんです、一般の人は妄想を除き真実を求めするんでしょう、そいつの裏腹破れかぶれです、つまらない人生、豚箱に入らなけりゃ自分で自分を豚箱に入れとか、アッハッハすっちゃかめっちゃかですか。だれかれ心身症の世の中、みなどっかおかしいんです。信仰がないからだという、たしかにそういうこったが、夢より出でてまた夢じゃしょうがない、真風見るや、いろんな着ているものあっさり脱げばそれでいいんです。
 もとこのとおりあり除くも求めるもないことを、身をもって示す。
 特別を云えばかえって狭き門です、抜けられない一神教、狂信をもってすじゃ、あほらしんです、100%信ずることは忘れるってこってす。忘れ去って、綿々機俊おのずから造化の神です、そのようにもと作られているんですか、なすことすべて是、良寛さんの書のようです、春象を含む人間本来のありようです、他の説得どうかしてこれをという、二の次三の次ですか、しかも東君の漏洩、東君春の神さまこれは文殊菩薩、いかんともしがたしです。
 るは糸へんに咎と書いて糸のこと、しんしさりょうは機を織る梭ひがあっちへ行ったりこっちへ来たり、糸を含むはあたりまえ、どうもせっかく第一則の頌は面白うにもなくと云ったら叱られるか、でも綿々として今に至る、ただじゃあただが得られないんです。
 大巧は拙の如し、よくあと絶えはてて下さい、あれ一句忘れたかまあいいか、面倒くさ。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
[PR]
by tozanji | 2005-02-06 13:59 | 従容録 宏智の頌古