2005年 02月 07日 ( 1 )

第二則 達磨廓然

c0015568_3495172.jpg

 衆に示して云く、卞和三献未だ刑に遭うことを免れず、夜光人に投ず、剣を按ぜざる鮮なし、卒客に卒主無し。假に宜しゅう真に宜しからず。羞珍異宝用不著。死猫児頭拈出す見よ。

挙す梁の武帝達磨太子に問う、如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く、不識。帝契はず。遂に江を渡って少林に至って、面壁九年。
 卞和三献は、卞和という人が玉を得て、楚の霊王に献ず、偽物を献じたといって足を切られ、武王即位してこれに献じ、また足を切られ、文王立つに至って玉を抱いて泣く、足を切られるは恨まず、真石を凡石となし忠義を欺瞞とされしことを恨むと、文王石を見るに即ち真玉なりとある。
 夜光投人は、鄒陽の詞、明月の珠、夜光の璧、暗を以て人に道路に投ずれば、剣を按じて相眄りみざるなし、何となれば因無うして前に至ればなり。眄ベンはながしめ横目に見る、鮮すくなしと読む。
 死猫児頭、僧曹山に問う、世間何物かもっとも貴き、山云く、死猫児頭もっとも貴し。なんとしてか死猫児頭もっとも貴き、師云く、人価を著くるなし。

 まあこれは本則の説明予防措置です、卞和三献は漢文の教科書にあった、足をあしきるという、あしきるという漢字があったな、ひでえこったと魂消た思いがある、とかく従容録は故事来歴が多い、衰微の兆候だつまらんといってないでアッハッハ勉強すっか、本来をお留守に注釈ばっかりという、有害無実ですか。
 梁の武帝は実在の人物で一代にして国を興し、とかく仏教に入れ揚げて、仏塔を建て坊主を供養し、自らも放光般若経なるお経を講義し、天花乱墜して地黄金に変ずるを見たという心境です。これをもって活仏仏心太子なる達磨さんに会う。如何なるか是れ聖諦第一義、仏教のエッセンスは何かと問う、磨云く、廓然無聖、エッセンスなんてないよ、個々別々ですか、がらんとこうあるっきり。なんだと、ろくでもないことこきゃがって、祖師西来鳴物入りでやって来た、わしの前に立っているおまえさんは何者だってんです。朕に対するは誰ぞ。磨云く、不識。知らないっていうんです。
「知らない。」
 この則の、どうですかというのはこれです。知らないって云えますか、なにかちらともらしいものあれば不可です。ちらともあるみんな嘘です、自分という嘘によって、知っているという偽によって世の中騒然です、戦争あり平和あり宗教あり思想ありする、地球をないがしろにする不幸そのものです、いらんことばっかりしている、歴史というがらくたの堆積です。
 花は知らないという、空の雲も水もいえけものも鳥もたいてい知らないの仲間です。
「早く人間も、知っている分を卒業して下さい。」
 そうしたら本当の大人になる、よって地球ものみなのお仲間入りですよ、お釈迦さまはそう云ったんです、これ仏、これ仏教の威儀です。
 如何なるかと問うときに馬鹿なやつほど、答えを知っている、そいつをなぞくってくれりゃそれでいいってんです、まるでなってない。天花乱墜地変黄金と云って欲しかった、要するに思想観念上のことです、奇跡といいパプテスマというもそれですよ、気違いの道です、結局は収拾が着かないんです、三つ巴にあい争うっきゃない。
そうじゃない、からんとなんにもないとはぜんたいです、個々別々です、まさにかくのごとくならば印下、ほんとうにやってごらんなさい、他のとやこうまるっきりかすっともせんですよ。
 せっかく卞和三献も三たび足切られですか、一般常識妄想ひっかきまわすっきり、仏の言はそりゃ通らないです。アッハッハ宗門が一番不通だったり、へたすりゃ殺されます。とかく知っている分かったことに終始する、夜光投人かくねんむしょうも不識も、卒客に卒主、ふわふわいいかげんは是、真実不虚には剣を按ずるんです、みなさん梁の武帝かしからずんば達磨さんかのどっちかですよ、そうです中間はないです。
 したがい江、揚子江をわたって少林寺に面壁九年。

頌に云く、廓然無聖、来機逕庭。得は鼻を犯すに非ずして斤を揮い、失は頭を廻らさずして甑を堕す。寥寥として少林に冷坐し、黙々として正令を全提す。秋清うして月霜林を転じ、河淡うして斗夜柄を垂る。縄縄として衣鉢児孫に付す。此より人天薬病と成る。

 せっかく廓然無聖も、仏という知らんものが挨拶、たとい痛棒一喝も届かず、ぶち破ることができなかった、逕庭は距離のあること。得は以下荘子にある、匠石という達人が斤、斧を揮って風を起こし、鼻を傷つけず、たかった蝿をことごとく追っ払ったという。武帝の武帝たるを破らずたかった妄想だけを払う、そりゃだれあってそうしたいところだが、せっかく親切もたいてい破り傷つける。人はいらんことに意を用いる、自分のよしあしじゃないんです、それがそのまんま転ずる外なく。失はという、孟敏という人、担っていた瓶が地に落ちてこわれたのを顧みずに行く、どうしてかと聞いたら、すでにこわれたものを、顧みたってなんにもならんと云った。故事なくたってまあそういうこったが、帝契わずさっさと去るわけです、参禅にはこれ是非善悪顧みぬこと、ものはやりっぱなしです、これができると直きですよ。一瞬前の自分はないんです、しかり今の自分もないです。
 寥寥冷坐黙々として正令を全提して下さい、まったく手つかずのただ。他入る余地がないんです。河は天の川斗は北斗七星、綿々としてが縄縄になって、織りなす古錦春象を含むが、此より人天薬病と成るですよ。そうです病に効く薬はこれっきゃないです。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
[PR]
by tozanji | 2005-02-07 03:50 | 従容録 宏智の頌古