2005年 02月 10日 ( 1 )

第五則 青原米価

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 衆に示して云く、闍提肉を割きて親に供ずるも、孝子の伝に入らず、調達山を推して仏を圧するも、豈に忽雷鳴るを怕れんや。荊棘林を過得し、栴檀林を斫倒して、直きに年窮歳尽を待て、旧きに依って孟春猶ほ寒し、仏の法身甚麼の処にか在る。

挙す、僧清源に問う、如何なるか是れ仏法の大意。源云く、盧陵の米作麼の価ぞ。

 闍提、須闍太子は賊に追われて逃亡し、食い物がなくなって、自分の肉を裂いて父母に供したという、大恩経にあり、孝子の伝に入らずと。そりゃまあ身体八腑これを父母に受くが、別段のことは思わず、坐中のこととしてみるがいい。自分というもとないものをとやこうとやるでしょう、是非善悪思想分別ぎりぎり、ついに尽きるまでとかいって、十人が十人要でもないことをする。ついにぶち抜くという、これを肉を割きて親に供ずるもといったんです。なるほどと思います。まったくん何の役にも立たん、孝子の伝に入らんです。ということはあとから知るんですがね。荊棘林を通過する、自縄自縛の縄目です、しばるのがいなきゃないってやつです。
 調達、提婆達多は増阿含経にあり、悪心を起こし山を押し仏を圧す、金剛力士、金剛杵をもって遙にこれを払う、砕石がふって仏の足を傷つける、仏身血を出だすは五逆罪の一、忽ち雷うってその身を引き裂くと。ついに身心ともになし、陰界衆縁を免れると、仏という標準です、もと仏が仏の標準を仮るという不都合、よって仏を殺し祖を忘れるんです。雷ごとき恐れておったらいかん、恐れわななくのを面と向かいあう、なんによれです。栴檀林という仏の集団です、その住人たるやってないんですよってわけです、もとそんな架空はないです。すると取り付く島もないです、年窮歳尽、首くくる縄もなし年の暮れです、ようやく解きはなたれるんです、仏教のぶの字もないです、帰依心これに勝れるはなし、菩提の心与麼に長ず。やたら宗門人が仏教のぶの字もないとは違う。

 清源は原本が間違ったらしい青原行思和尚、一宿覚と云われる、六祖の法を継ぐ、因に僧問う、如何なるか是れ仏法の大意、どうですか虎の威を仮る狐、でもって何をなすという。青原云く、盧陵の米の値段は幾らだ、と聞く。米は主食だからとか、たまたま話題になったとかじゃないんです、腹蔵露呈取り付く島もないんですよ、宗門坊主の語呂会わせでもなく、いわんや世間でたらめじゃないんです、人を救うんですよけつの穴まで。

頌に云く、太平の治業に象無し、野老の家風至淳なり、只管村歌社飲、那んぞ舜徳堯仁を知らん。

 五皇賢帝の時代という、中国理想の帝王はだれもそのあるを知らず、人民鼓腹撃壌して酒を飲み村歌す、それほどに舜の徳堯の仁が行き渡っておったという、まさにそりゃそうあるべきなんですが、かつてそんな世が存在したためしはなく、世界中のニュースを目の当たりする今日、まったく人間どものなすことどうしようもなし、練炭火鉢抱えるほうが正解かと思うほどに。アッハッハ自殺志願者に告ぐ、われに生きながら死ぬ方法あり、大死一番して鼓腹撃壌は、歓喜無我夢中ですよ。だってさ死んだやつは二度と死なんです、ないものは傷つかぬ、これを無心という。花のように平和を如来です。太平の治業にかたち無し、青原米価をそりゃどうしても手に入れて下さい。野老の家風、わっはっはそのろくでもないことは、けちで貪欲滑稽長いものには巻かれろ、田舎坊主やってりゃ毎日付き合って、はーい実に楽しくやっております、時に怒鳴るけんどもさ。只管打坐ただうち坐る、ウフッ村歌がモーツアルトだったり、そりゃ朝に晩に坐っておりますよ、ほとんどこの世に用無しってぐらいにさ。
 どうしてここに救いがあるのにって、そりゃ思うには思います。

画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-10 09:09 | 従容録 宏智の頌古