2005年 02月 17日 ( 1 )

第十二則 地蔵種田

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 衆に示して云く、才子は筆耕し弁士は舌耕す。我が衲僧家、露地の白牛を看るに慵うし、無根の瑞草を顧みず、如何が日を度らん。

挙す、地蔵脩山主に問ふ、甚れの処より来る。脩云く、南方より来る。蔵云く、南方近日仏法如何。脩云く、商量浩浩地。蔵云く、争でか如かん我が這裏田を種へ飯を摶めて喫せんには。脩云く、三界を争奈んせん。蔵云く、汝甚麼を喚んでか三界と作す。

 地蔵はお地蔵さんではなく、地蔵桂シン深のサンズイではなく王、玄沙師備の嗣、門下に法眼ほか。才子は筆耕し弁士は舌耕すと、世間一般は血の汗流せ涙を拭くなといった按配に奮闘努力によって、やっと人並みななり人を抜きんでていっぱしというわけです。だがこれは違う、わずかに悩を除き自分一個を救えばいいんです、ほかのこたいらんです。 露地の白牛無根瑞草は、洞山大師玄中銘という、アッハッハなんだかんだいう人で、というと叱られますがたとえばまあこういった風で、「霊苗瑞草、野父芸ることを愁ふ、露地の白牛、牧人放つに懶うし。」懶うし慵うし同じです、根無草、妄想というこれいいわるいもない、どだい妄想かくという自分がかいているようですが、自分のものなぞないんです、すなわち自分の自由にできない、そいつを我が物に、自由にしようとするから妄想なんです。
 霊とは心の問題あるいは自然の微妙です、もとかくの如くあるによって瑞草ですか、念起念滅、ぽっと出ぽっと消えるんです、そのまんまにしておきゃそれっきりなのに、そいつに栄養を与える、野父芸ることを愁う、アッハッハ自分でやっといて自分で愁うる世の常ですか、思想妄想にしてやられる手前倒れを=人間と云うんですか。
 これ妄想を出す人もこれを芸術する人も同じ一人です、それゆえぴったり一つになると、まるっきりないんです、霊苗瑞草念起念滅のまんままったくない、これを無心心が無いというんです、妄想、想念がないんじゃないんんです、ないんじゃそりゃ脳死ですよ、さかんに活躍したろうがまったくない、はいこれをまず得て下さい、真正面ということです。ちょっと苦労しますか、でもこれ知らんきゃそりゃ問題にならんです。
 露地の白牛貴重品ですか、ほかはみんな厩の中のべた牛ってなもんで、仏の示す処比類を絶するんですが、そのものになりきったらそのものないんです、貴重品へえ何がさって聞く感じです。
 新年宴会に上野のお山へ行ったら、ホームレスの大会などやっていたけど、なんかあっちこっち坊主どもに出会った、ぱかっと目が合うと、目なんか合わせやせんのにさ、向こうががっさり萎縮する、今時坊主ども仏教のぶの字もないんだけど、そりゃだれあって、なんか来し方みじめうさんくさみたいな顔してそっぽ向く、みじめどうしようもなしアッハッハ、問題にならんはこっちだが、わしはぽかっとそれっきりだのに、相手が萎縮するのは、てめえ一人相撲なんです。
 あほっくさいてえかまあそういったこったな。蛇足ながら意識の外なんですよ、鼻持ちならぬ自意識じゃないんです、アッハッハうだうだいっちゃった。まあそういったことで懶うしは、ものうしと云ってたんじゃあ痛棒食らわせにゃいかんのです。

 この則は脩山主、撫州龍済山主紹脩禅師とあります、地蔵の法を嗣ぐんですが、このとき南方から来た、南方の仏教如何と問はれて、いやもう大いに盛んでありますと答えた、そうかいやこっちは、田を植えて実ったら摶(あつ)めて飯にして食っとるがという、いえそんなんじゃどうして三界を脱すると聞く、三界の枠を着せなきゃ三界なしですが、脩山主これを一心に求め来た様子です、兄弟子法眼に、万象の中独露身と是れ万象を撥うか万象を撥はざるかと問われて、万象を撥はずと答えている、見事にひっかかるんです、どうしても問題にせずにはいられない、なんの撥不撥とか説かんと云われて、地蔵のもとにかえり、大悟するんです。わかりますか、ただ坐ってりゃいいたってそうは行かんです、まずは脩山主に見習うがいいです、何かあるから求めるんです、求めなきゃどうもならん、ついに求め来たって皮っつら一枚になる、三界はと聞く、三界なしを知る、三界なんてものないんだからどうのじゃないんです、うすっ皮一枚はがれるのに、人の百生分も費やす覚悟ですよ、でなきゃ法なんて嗣げやせんです、なにたったいっぺん捨身施虎ですか、三界万象わがものになって消える、そりゃもうこれ初めて本来。

頌に云く、宗説般般尽く強いて為す。耳口に流伝すれば便ち支離す。田を種へ飯を摶む家常の事。是れ飽参の人にあらずんば知らず。参じ飽いて明らかに知る所求無きことを。子房終に封侯を貴とばず。機を忘じ帰り去って魚鳥に同じうす。足を濯ふ滄浪煙水の秋。

 どうしても仏を求め仏教に習う、就中激しいものがあります、これなくば結局ものにならんでしょう、でもいったい何を求めているのか、自分というこの身心のほかにないんです、耳口より入るもの、耳口より出ずるもの、どうですかこれ、まさにもっともそんな必要のないことを知る、これ仏教ことじめ。西欧文物あるいは哲学に志した人が、一転してこの事を求めるのに、いくら坐ってもどこまで行こうが、対人関係ですかコンセンサスという便ち支離するよりない、なんというかおのれご本尊で坐っている、あるいはその醜悪に気がつかないんです。田を植え飯を喫すること日常事に、なんの求める事もないんです、これを知るに従い、参禅という跡形もないんです、いったい何を求めて来たというに、求め来たったそこにあるんです、因果無人です、だれに自分を証明して見せることも、いったんは要らないんです、記述なしを知ること、科学ほか一神教派生哲学宗教の、まったく知らない自然なんです、のこっと入って消えちまうんです。これ即ち参じ飽きてはじめて知るところ、子房という人大功あって漢の高帝これに報いんとしたが断ったという故事、わかりますか、せっかく大法を得て、森羅万象と同じ、魚や鳥や花や雲の大宇宙、いえようやく地球のお仲間入りなんです、人にひけらかすごときけちなもんじゃないんです、滄浪の水清めば吾纓を濯ふべく、滄浪の水濁れば吾が足を洗ふべし、漁父の賦というにあるそうです、雪降れば雪晴るれば空と、どうですかほかの暮らしようがないんですよ、涙流れ放題鼻水万般てね。
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by tozanji | 2005-02-17 07:28 | 従容録 宏智の頌古