2005年 02月 20日 ( 1 )

第十五則 仰山挿鍬

c0015568_1131748.jpg

 衆に示して云く、未だ語らざるに先ず知る、之を黙論と謂ふ。明かさざれども自ずから顕はる、之を暗機と謂ふ。三門前に合唱すれば両廊下に行道す。箇の意度あり、中庭上に舞ひを作せば、後門下に頭を揺かす、又作麼生。

挙す、い(さんずいに為)山仰山に問ふ、甚麼の処よりか来たる。仰云く、田中より来たる。山云く、田中多少の人ぞ。仰山鍬子を挿下して叉手して立つ。山云く、南山に大いに人有って茆を刈る。仰鍬子を拈じて便ち行く。
 黙論暗機ですか、風物ものみなぜんたいならざるはなし、山川草木鳥もけものもそうでしょう、人間だけがなぜか中途半端ということがあります。思想といい論文と云い宗教といい哲学というんでしょう、いずれ届かない、どうにも不満足です。信ずるものは救われるという、空の雲も花もそんなこと云わんです。信不信に依らずと云えば少しは当る、心して狭き門より入れという、では狭いきりだ、ついには100%信じろという、信じ切るとは忘れることだ。ここに至って黙論暗機です。
 黙論暗機を卒業すると、平和な地球のお仲間入りです。三門山門に同じ、空夢相無作の三解脱という、なんにもないんです、自分に首を突っ込まない。つうといえばかあというのは、言語上ですか、お経も行道もそりゃ日常茶飯です、舞いを舞えば頭をゆりうごかす、アッハッハがきだね、腮を取っちまって下さいよ。仏教のありよう個々別々。
 個人という根本です、囲わないんです、まさに手続き不要なんです。本則はこのまんまに見ておけばいい。い山霊祐禅師は百丈懐海の嗣、仰山慧寂禅師はその嗣、併せてい仰宗の祖、い山仰山と茶を摘むついで、山云く、終日茶を摘む、ただ子の声を聞いて子の形を見ず。仰、茶樹を撼がす。山云く、子ただ用を得てその体を得ず、仰云く、いぶかし和尚如何。山良久す。仰云く、和尚はその体を得てその用を得ず。山云く、子に三十棒を放つ。仰云く、和尚の三十棒はそれがし喫す、それがしの棒は誰をして喫せしめん、日く子に三十棒を放つ。これい山摘茶の公案というんだそうです。
 公案とは実際にあったことです、はーいまったく一回切りです。独創などいうインディビデュアルを超えています。

頌に云く、老覚情多くして子孫を念ふ、而今慚愧して家門を起こす、是れ須らく南山の語を記取べし。骨に鏤ばめ肌へに銘じて共に恩を報ぜよ。

 南山は天子の尊位、茆はかや、茆を刈るは百姓の卑位、田中より来たる乃至鍬を挿して叉手すより、天地宇宙まさに他なしの、師弟のみあって平らかなさまを頌すんです、そいつをまあ、お涙頂戴、こっぱずかしいやとは云いえて妙、頭ぶん殴ってやろうずの思い。骨にちりばめ肌へに銘ずというこれ、百歩遅い言い種もなんかびったりっていう、そっぽ向きたくなるところがよろしい。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
[PR]
by tozanji | 2005-02-20 11:04 | 従容録 宏智の頌古