2005年 02月 22日 ( 1 )

第十七則 法眼毫釐

c0015568_855489.jpg

 衆に示して云く、一双の孤鴈地を搏ちて高く飛び、一対の鴛鴦池辺に独立す。箭鋒相柱ふことは即ち且らく致く、鋸解秤錘の時如何。

挙す、法眼脩山主に問う、毫釐も差有れば天地懸かに隔たる、汝作麼生か会す。脩云く、毫釐も差有れば天地懸かに隔たる。眼云く恁麼ならば又争でか得ん。脩云く、某甲只だ此の如し和尚又如何。眼云く毫釐も差有れば天地懸かに隔たる。脩便ち礼拝す。

 一双なら孤鴈じゃないではないかという、なに孤鴈が一双です、これを知れるは出世間の出来事です、なみの考えじゃ届かんです、コンセンサス情識を免れる、たった一人になること色即是空です、地をうって高く飛ぶ孤鴈が、本則じゃなんせ二羽いるから一双。おしどりは鴛が雄で鴦が雌繁殖期しかいっしょにならんそうですが、仲睦まじい、池辺に独立です。師弟これ五百羅漢これ、たとい一千も他にありようはないんです。
 箭鋒あいささうは、弓の名人同士が争って、百歩離れて弓を射たら、矢尻と矢尻がうっつかって尽く落ちたという、列子陽問篇の故事、宝鏡三味にあります、そんなめんどうこといらん、いつだってぴったり、木人まさに歌い石女立って舞う、虚空の中の虚空です、過りっこない。
 鋸の山と谷みたい議論は、仏と外道の問答なんぞに出て来ます、こう云えばああ云う、たとい鸚鵡返しでも、そりゃ仏はまったく違うんですが、本則はさにあらず。毫釐も差あれば天地懸かに隔たる、坐っていて実にこれなんです、坐って坐って坐り抜いて、仏教辺のことはなにもってつうかあです、しかも本来のものではない。ほんとうの自由が得られない、あるいは得られていないことに気がつかない。どうしようもない、人間正直なもので釈然としないあとかたがあります。坐は楽うになるんですが、楽な上にも大安楽、かすっともかすらない上にもかすらないんです。
 思想人生観上毫釐も差あれば天地懸絶します、思想人生観なぞいうと笑われますが、結局は他にないんです、戒を第一安穏功徳の諸住所となすと、はいわしの人生観です、なるほどなあと思ったら忘れる。これ毫釐も差あれば天地懸絶と、なるほどなあということあったんでしょう、しかもおまえは非という、じゃあどうなんだと聞く。毫釐も差あれば天地懸絶といわれて、礼拝して去るんです、まずもって云うことないですな。

頌に云く、秤頭蝿坐すれば便ち欹傾す。万世の権衡不平を照らす。斤両錙銖端的を見るも、終いに帰して我が定盤星に輸く。

 天秤は蝿が一匹止まっても傾く道理で、ここには中国というか、むかしの棹秤の熟語が並んでます、秤は準衡権よりなる、準はつな衡はさお権はおもり。おもり重量の単位を、八銖で錙、三錙を両、十六両を斤ですとさ。定盤星は遊びというか無駄めもり、人間=はかりということあるでしょう、省みて下さい、たいていの人銭勘定ですか、これを何に標準をおくかというのが坐禅という、違いますか。
 他に標準をおく間はさまにならんです。万世の権衡不平を照らす、四苦八苦ということを知るには、まさに標準のうしてです、標準失せると自分自身が標準とは、斤両錙銖端的、ぴったり実にそのものです。もと蝿一匹とまってもというこれがありよう、さびっかす、妄想執念を免れてこうなるってわけです、でもって仏法という定盤星に負ける、無駄めもりにお手上げ万歳ってわかりますか、アッハッハなーんかぴったりです。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
[PR]
by tozanji | 2005-02-22 08:05 | 従容録 宏智の頌古