2005年 02月 24日 ( 1 )

第十九則 雲門須弥

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 衆に示して云く、我は愛す韶陽新定の機、一生人の与めに釘楔を抜く。甚としてか有る時は也た門を開いて膠盆を綴出し、当路に陥穽を鑿成す。試みに揀弁して看よ。

挙す、僧雲門に問ふ、不起一念還って過有り也また無しや。門云く、須弥山。

 我は愛す韶陽新定の機というのは、ここから発したのか、いや違う碧巌録の方が先か、韶陽は、雲門大師が韶州雲門山に住するによる、まさに我は愛すとしかいいようにない、わしは趙州真際大師の方が好きだが、なんせまあ手も足も付け難し、ひええったらぶっ魂消。順次出て来ると思うから、アッハッハ申し訳ない従容録を見るのは初めてです、挙げませんが、この則もどっかんずばというやつです、まったく蛇足の付けようがないんです。
 須弥山にのっかられては、あとかたも残らない、虚空になり終わって、電長空に激しと、至りえ帰り来たるんです。不起一念とは、一念も起こらずというんです。一念起こらなければ、それを観察しうる自分=念がないんです、するとかえって過ありやと聞き得ないといったほうが正解です、ではどうなるかというと、須弥山です、はあっと一念起こったときに、宇宙いっぱい大です。我と有情と同時成道です。たとい平らかに、一微塵なくたって、すべてがおらあがんと、そのまっしんにあります。よく保護せよと、ここに住し長長出するんです、これ仏、釘を抜き楔を抜いて他が為にする、我という囲うものがない。落とし穴だろうがにかわのお盆だろうが、もしや、我は愛すというからには、そう見えるんです、ただの大法他なしなんです。

頌に云く、不起一念須弥山。韶陽の法施意志慳しむに非ず。肯ひ来たれば両手に相ひ分布せん。擬し去れば千尋攀ず可からず。滄海濶く白雲閑たり。毫髪を将って其の間に著くこと莫れ。假鶏の声韻我を謾じ難し。未だ肯へて模胡として関を放過せず。

 こりゃまあこの頌の如くでなにを云うこともありません、ほんに一毫髪も挟めばそりゃ得ることできんです、須弥山とまさにこうある以外にないんです、夜をこめて鶏のそらねをはかるとも世に逢坂の関は許さじ、これは清少納言の歌ですが、もしやそんなふうに坐禅をやっていませんか、ああでもないこうでもないこうあるべき、自らすすみてこれを証するを迷いとなす、そうやっている自分を思い切って捨てる、明け渡すんです、未だ肯へて模胡として関を放過せず、ああまことにおのれのありさまと知って、たとい手段を選ばず、手段なしのむちゃくちゃ、むちゃくちゃかえりみるなし、もとなんにもなし、なんにもないから捨てられるんです、死ぬとはどういうこと
か、平らかに思い当たって下さい、須弥山もくそもないったら、まっしんに坐れば須弥山そのものです、アッハッハこりゃいうだけ遅い、どうしようもないな、はいどうしようもないを両手もって差しだします。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-24 03:15 | 従容録 宏智の頌古