2005年 03月 02日 ( 1 )

第二十五則 塩官犀扇

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 衆に示して云く、刹海涯無きも当処を離れず、塵劫前の事、尽く而今にあり。
試みに伊をして覿面に相呈せしむれば、便ち風に当たって拈出することを解せず。且らく
道へ過什麼の処にか在る。

挙す、塩官一日侍者を喚ぶ、我が為に犀牛の扇子を過ごし来たれ。者云く、扇子破れぬ。官云く、扇子既に破れなば我れに犀牛児を還し来たれ。者対無し。資福一円相を描きて、中に於て一の牛の字を書く。

 塩官斎安禅師、馬祖道一の嗣、資福如宝禅師は仰山二世の嗣、刹はお寺に使ったりしますが、もとは国土の意の梵語、塵劫塵点久遠劫永遠の時、世間一般ものみなを含む、はてもないんですけれど、いつだってこの事の他なしです。塵劫前だろうがたった今。なに禅問答だ仏教のこっちゃないです、私どもの一挙手一投足もとっからそうできているってこってす。塩官和尚一日、侍者に犀牛の扇子を持って来いと云った、水牛の骨でできた扇子ですか、そいつは破れちまったと侍者がいった、じゃその骨持って来い、犀牛児は骨をいうらしいんですが、風に当たって、もとっから風ですか、むうとばかり黙っちまう、資福が出て、円を描いて中に牛の字を書いたというんです。こんなの臨済門下大好きで、所作とかなんとかやるんですが、自分どうもなら
ん、自救不了ではなんにもならんです。塩官ぶんなぐるか、払子を使うには、幸い資福はそんな玉じゃなかった。過いずれにかある、大切なことを忘れちまってはだめです、禅を習う、あっちもこっちも、毒にも薬にもならんの多いですが、この侍者の爪の垢でも煎じて呑めばいいです、どこまで行ったって覿面です、まっすぐ真正面の他ないです、世間にひけらかすんではない、ひけらかす世間を失う。死ぬとは自分を失う、淋しく切なく、まったくなんにもならんのへ、参じて下さい。許すのは自分が許すんじゃないんです、なんにもないものが許すっていえば許すんですよ、こっちからじゃない。

頌に云く、扇子破るれば犀牛を索む。捲攣中の来由あり。誰れか知らん桂穀千年の魄、妙に通明一点の秋と作らんとは。

 捲は木の丸盆、攣は手足の曲がること、円相にあてる、桂穀は円かな月、魄は月の輪郭光なきところを魄と名ずくと、月の朔。扇子破れて犀牛を求めるという、自分ぺっちゃんこになったら、残っているものがありますか、たいていあるんです、ではそれをどうする、手を付けなけりゃそれっきり。人間生涯玉に疵みたいとこあります、これを救うという、糊塗するんじゃない、さらけ出して牢獄に入るか、だったら疵失せるか、あるいはこれが大問題です、人いつの世だって同じです、いいかげんにしたらいいかげんにしかならん、対決して真正面です、罪を求めるに罪なし、空っけつになったら外と同じです。我というものを去る以外にない、実に我というかつては鼈鼻蛇であったこれなんぞ。円相を描いて牛の字を書きますか、そんなおまじないじゃどうもこうもならんていう、さらに全提のあるあり、正令全提牛ですか、うっふ牛であってもいい忘れ去るんですか。すると月のまわりは千年魄、あるいは却来して看ずるに、通明一点の秋ですか。さあ各正に以ておのれの円相を描いて下さい、どっか臨済坊主の掛け軸じゃない、そんなふざけたもんじゃないのです。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-02 00:00 | 従容録 宏智の頌古