2005年 03月 03日 ( 2 )

第三十三則 三聖金鱗

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 衆に示して云く、強に逢ふては即ち弱、柔に遇ふては即ち剛。両硬相撃てば必ず一傷有り。且らく道へ如何が廻互いし去らん。

挙す、三聖雪峰に問ふ、網を透る金鱗、未審し、何を以ってか食と為す。峰云く、汝が網を出来たらんことを待って汝に向かって道はん。聖云く、一千五百人の善知識話頭も也た識らず。峰云く、老僧住持事繁し。

 雪峰義存禅師、青原下五世徳山宣鑑の嗣、三聖慧然禅師は臨済の嗣です、強に逢うては弱、柔に遇うては剛という、世の常のありよう、女と百姓は同じという長いものには巻かれろ式じゃない、卑怯護身でなく、両硬あいうてば一傷ありを知る、これ就中うまく行かんですよ、かーつというとかーつやる、がんがんと打つとがんと鳴る鐘の如く。三聖問うて云く、網を透る金鱗、これは成句になっていて、迷悟凡聖の羅網すなわち、師家のかける網ですか、いいや自分で勝手にかけているんですか、これを透らにゃそりゃ問題にならんです、迷悟中の人という、凡人ありゃ聖人ありです、そいつを抜け出た金鱗大魚はいったい何を食っているんだという、どうだ云ってみろってわけです、なんにも食っておらんと云えば、そりゃ死んじまうってわけの、尽大千口中にありといえば、このばかったれとも、でもまたこれも常套手段ですか、わしも雪峰に同じい、汝が網を出で来たるを待って汝に云をうという。わかっていることをなんで聞くんだ、わからんことをなんで聞くんだ、迷悟凡聖時と今と雲泥の相違か、廻互まったく同じか、さあ道へと、一千五百人の学人雲衲を抱えた大善知識ともあろうものが、なんだ話頭も知らず、云うことも知らんじゃないか。これに対して老僧住持こと繁し、忙しくってなという、蛇足ながらアッハッハ老僧っての利いてます。

頌に云く、浪級初めて昇る時雲雷相送る。騰躍稜稜として大用を見る。尾を焼いて分明に禹門を度る。華鱗未だ肯て韲甕に淹されず、老成の人、衆を驚かさず。大敵に臨むに慣れて初めより恐るることなし。泛泛として端に五両の軽きが如く、堆堆として何ぞ啻千鈞の重きのみならんや。高名四海復た誰か同じぅせん、介り立って八風吹けども動ぜず。

 浪級は中国ほう(糸に峰のつくり)州龍門山にある放水路、その水が三段になったところを云う。焼尾は、鯉が浪級を登って龍と化すとき、雷鳴ってその尾を焼く、登竜門科挙の試験を及第して必ず歓宴を延ぶ、これを焼尾宴という。登竜門は日本に今でも使うんですが、ぶち抜いて仏となるたとえ、古くからに用いる、妄想迷悟中の鯉では、そりゃ問題にならない、騰躍おどり出て稜稜として、卒業しつくすさまですか、実感として味わって下さい、大用現前です。華鱗、鯉の鱗は食用になるが、龍の鱗はいまだかって韲甕鮨の器だそうです、鮨にゃならんよってわけです。老成の人は雪峰、大敵に臨むは三聖ですか、なにせいおどり出なきゃ問題にならん、この則どうなんですか、まだ尻尾焼かれってとこですか、アッハッハことはそんなこっちゃないよ、もとかくのごとく、泛泛として羽毛の軽き、堆堆として山の如くある、これ日常茶飯、意を起こし、くちばしを突っ込む七面六臂じゃないんです、われこそはいの一番という無意味、老僧事繁し、介護いらんっていうんですよ、介立独立に同じ、八風吹けども動ぜず、まさにこれ一箇のありようです、仏という何かあれば、虎の威を仮る狐です、よくせき看て取って下さい。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-03 13:26 | 従容録 宏智の頌古

第二十六則 仰山指雪

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 衆に示して云く、冰霜色を一にして雪月光を交ふ、法身を凍殺し漁夫を清損す、還って賞玩に堪ゆるや也た無しや。

挙す、仰山、雪獅子を指して云く、還って此の色を過ぎ得る者有りや。雲門云く、当時便ち与めに推倒せん。雪竇云く、只だ推倒を解して扶起を解せず。

 清廉の屈原を法身とすれば、清濁時に応ずる漁夫は応身の立場という。屈原は唐の詩人、冰は氷です霜と一色、雪と月光という、どうですか、風景のごとくに心事ありですか、思想観念を絶したさまですか。たしかに自分という一切を空ずる、そりゃ色あり形ありするんですが、大小色彩を絶したものがあります。どっちが大きいどっちが小さい、黒いか白いかと問われて、答えが出ない、知らないというんです。法身という目標もなく清濁という種々雑多もないんです。かえって賞玩に堪えるや否やというところが面白いんです、世間とは観念思想をもってするんですか、雪舟の水墨画も紙と墨を必要とする。とらわれないということあってこれを用いる。色即是空か
ら空即是色です。だからどうだといってつっぱらかるんですか、いえ時によってどうだとやり得るんです。
 仰山きょうさん慧寂禅師はい山霊祐の嗣、雪獅子は雪達磨です、指さしてこの色に過ぎるものありやと示す、これによって悟るものもあれば迷うものもあります。
でも平地に乱を起こすという、一波乱起こさなければそりゃあだめです。でたらめ思いつきじゃない、実にこれに過ぎたる色ありやです。白が明白っていうんじゃないんですよ、知識思想の及ばぬところです、人々看よという。これを聞いて雲門がそん時いりゃ雪達磨蹴倒したものをと云った。雪竇せっちょう重顯禅師は雲門三世智門光祚の嗣、碧巌録百則を著わす。云く、ただ推し倒すことを解して、扶け起こすことを知らんと云った、アッハッハまあそういうこってすか。これがちんぷんかんぷんの人は無縁の人、舌を巻く人は向上の人、雪竇をぶんなぐる底は、さて何人。

頌に云く、一倒一起雪庭の獅子。犯すことを慎んで仁を懐き、為すに勇んで義を見る。清光眼を照らすも家に迷ふに似たり、明白、身を転ずるも還って位に堕す。
衲僧家了いに寄ること無し。同死同生何れをか此とし何れをか彼とせん。暖信梅を破って、春、寒枝に到り、涼飃葉を脱して、秋、潦水を澄ましむ。

 これしきのことにずいぶんご丁寧な頌は恐れ入る、犯すことを慎むとは、雪竇扶け起こすを云い、為すに勇んでは雲門推し倒すを云う、別段仁義のこっちゃないんですが、大死一番して大活現成の伝家の宝刀に譬えた。清光眼を照らすも家に迷うに似たり、坐っていて思い当たることないですか、すべてを尽くして肉は悲しというのは西欧の詩人ですが、どっかお釣りが来る、垢取りせんけりゃならんという感想です。明白身を転ずるもかえって位に堕すの、虚々実々です。どっちがどうこうすべきだの問題ではない、問題ありながら卒業するんですか。完全とは何か、すでに始めっからこのとおり、生まれるから変わらないんです、坐禅をする前と終わった今と同じ、坐禅遍歴もまた同じ、さっぱり進歩も取り柄もなし、さてどうしますか。同死同生いずれ
を此としいずれを彼とす、うっふうこれに参ずるにいいですよ、事は簡単明瞭。
暖信せっかく梅が咲いたのに、寒気襲い、紅葉をひるがえして、寒風潦水水たまりを澄ましむる、はーいどっからどこまで繰り返して下さい、とほほうんざりってのいいですよ、彼岸にわたる法のかい、かいは同じことの繰り返し、アッハッハ吐く息吸う息。
去って下さい。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-03 00:00 | 従容録 宏智の頌古