2005年 03月 05日 ( 1 )

第二十八則 護国三麼

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 衆に示して云く、寸糸を挂けざる底の人、正に是れ裸形外道。粒米を嚼まざる底の漢、断めて焦面の鬼王に帰す。直饒い、聖処に生を受くるも未だ竿頭の険堕を免れず、還って羞を掩ふ処有りや。

挙す、僧、護国に問ふ、鶴枯松に立つ時如何。国云く、地下底一場の麼羅。僧云く、滴水滴凍の時如何。国云く、日出て後一場の麼羅。僧云く、会昌沙汰の時護法善神甚麼れの処に去るや。国云く、山門頭の両箇一場の麼羅。

 雲門云く、終日著衣喫飯して未だ嘗て一粒に触れず一縷の糸を挂けず。とあってこれを取る。一糸もまとわずじゃそりゃすっ裸の外道、一粒も噛むことなければ、焦面の鬼王は餓鬼道の王のこと、そりゃ餓鬼道に墜ちるというんです。じゃなぜ雲門大師ともあろうものがって、アッハッハ一糸もつけず一粒も嚼まず、清々この上なしの不染那ですか、なにだれあって日常正にこれ是の如くなんですよ。顧みて下さい。
でもってこう云ったとたんに一場の麼羅ですか。麼はりっしんがつく、梵語そのまんまの恥という、麼羅恥さらしです。 たとい聖人君子というより、聖処とは実に仏です、自分というよこしまを与う限りに去るが故にです、たといそうあったとて、百尺竿頭にあって、墜落の危険を免れぬ。高い木に登って、手を放せ足を放せ、しまい口でかじりついているところへ、下に人が通って大法を問ふ、さあどうするという公案があります、アッハッハこれ仏、いえ平地に乱を起こすんですか、どうやったら恥を蔽うことができるかとは、こりゃご挨拶。
 護国院守澄浄果禅師は洞山下疎山光仁の嗣、僧云く、枯松に鶴の立つとき如何、世法を去って仏法に就く、すべてを尽くし終わって枯松龍吟、そりゃそういうときがあるんです。どうだというんです。護国云く、地下底一場の麼羅、カリカチュアで云えば共産主義のキムジョンイルですか、アッハッハ笑われちまうか、なに人間のやるこたみな同じです、人間機械別様には動かん。そりゃ無理だよっていうんです、つまりいまだ去ってはいない。世法の延長、恥さらしがあるんでしょう。
 僧云く、滴水滴凍の時如何、一滴すりゃ凍るっていうんです、他なしと云いたかったんでしょう、そりゃここまで尽くすは大変です。護国云く、日出でて後一場の麼羅、こいつが一番よくできてます。目に浮かぶようなのがいいってほどに、感嘆させられる。
 会昌沙汰というのは、唐の会昌五年武宗が僧尼二十六万五百人に沙汰して、還俗せしめたという法難です。そのとき護法善神、仏法をまもる神様、一ならず何種もあって、お経にも読んでいるっていうのにどうしたってわけです。護国云く、山門頭の両箇、仁王さんです、一場の麼羅、こいつは冗談口みたいで笑っちゃうんですが、仁王そのものが麼羅、ユーモアなんぞでないところを如実に味わって下さい。
 はあてこう云うさへに一場の麼羅。禅坊主口はばったいんですか、いえだれよりも恥を知るんです、鍛えるってことないんですよ、一般は間違ってます。

頌に云く、壮士稜稜として鬢未だ秋ならず、男児憤せざれば侯に封ぜられず。翻って思ふ清白伝家の客、耳を洗ふ渓頭牛に飲はず。

 清白伝家の客、耳を洗う云々、ともに清廉潔白この上なしという、中国古代のいいつたえ。なにがし九州の長に登用されるのを断って、汚れだといって川で耳を洗っていた。牛をひく男が聞いて、やたいしたもんだといったら、そんなんじゃつまらん もっと名を馳せてという、男は川の上流に行って牛に水を飼う。壮士は青年男子、稜は勢い鋭きさま、鬢がまだ白くならない、不惜身命、時には死に物狂いにこれを求める。そりゃそうです、仏の示すどうしてもこれが欲しいと思う、口当たりも悪ければ、取っ付きにくいなんてもんじゃない、流行りすたりの殺し文句や、いいことしいの信仰の類じゃないんです。本当本来を知る、就中もってのほか。思量分別の他です。壮士稜稜として、ついにかくのごとくの無心、無眼耳鼻舌身意ですか、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき 枯松に立つ鶴ですか、思いのままになりそうで、地下一場の麼羅、君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めず、本来本当のまっただなかに気がつく、これがどうしようもこうしようも、滴水滴凍の時如何、日出でて一場の麼羅。アッハッハ男児
奮発、憤ぜざれば侯に列せずですよ、さあもう一歩、百尺竿頭しがみつくところを放して下さい。死ぬよりないんです、そうですよすべて同じ方向です、捨てて捨てて捨て切るほかない、それたとい清廉潔白も遊んでるようなものなんです、どんともう一発。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-05 00:00 | 従容録 宏智の頌古