2005年 03月 08日 ( 1 )

第三十一則 雲門露柱

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 衆に示して云く、向上の一機、鶴霄漢に沖る。当陽の一路、鷂新羅を過ぐ。直饒ひ眼流星に似たるも、未だ口扁擔の如くなるを免れず。且く道へ是れ何の宗旨ぞ。

挙す、雲門垂語して云く、古仏と露柱と相交はる。是れ第幾機ぞ。衆無語。自ら代って云く、南山に雲を起こし、北山に雨を下す。

 向上の一機という、ようやく坐が坐になるんです、自分というものみな失せてまったくにこうある、そうしてもって坐っても坐ってもということがある、これ結果を求める、こうなるべきという修禅じゃないんです、故に一機ぜんたいです。たしかに第幾機と問う、まさしく昨日のおのれ今日のおのれじゃないです。しかもそうですねえまったくの無反省、省みることないんですよ。霄漢は大空、天に沖するというと、お寺のおおやまざくらがそんなふうに咲いたですが、ようやく盛りを過ぎましたか、余談でした。鷂ははやぶさです、大陸の外れ半島の新羅を過ぎたんですか。扁擔への字です、口への字に結んで物もいえぬさま。直に得たり口扁擔に似たるを、などよく用
います、衆無語です。当陽の一路はまあ陽が当たるんですか、アッハッハこれ風景を見ておけばいいです。
 露柱俗語で大黒柱というんですが、そんなんでなく露はだかの柱です、どうにもぶち抜けなくて、柱を見て悟ったという人いました。露柱明道尼という庵主さんがいました。古くから仏の友人ですか、さあやってごらんなさい。露柱と相交わること、第幾機ぞと、自分失せて柱ばっかりになっても、つなげる駒ですか。それとも南山に雲を起こし、北山に雨降らせですか。向上の一機千聖不伝大いに楽しんで下さい。
というのもこれが生活だからです、一寸坐れば一寸の仏という、お寺に生まれりゃ説教じゃないんですよ、まずもってぶち抜いてからです。葛藤是れ好日あって、さながらに人生です。どこへ行き倒れかわからん托鉢行脚ですよ。

頌に云く、一道の神光、初めより覆蔵せず。見縁を超ゆるや是にして是なし、情量を出ずるや当たって当たることなし。巌華の粉たるや蜂房蜜を成し、野草の慈たるや麝臍香を作す。随類三尺一丈六、明明として触処露堂堂。
 一道の神光、だれあってそうですねえ、神光慧可大師以下まったく変わらぬ一道です、人間斟酌の預かり知らぬ神光です、初めより露堂々です。露柱丸柱がいいですな、まさにかくの如くにあるんです、見るという目がない、見縁という観念妄想を離れるんです、無眼耳鼻舌身意は、これ就中うまく行かんですよ、どうしても見る自分と見られるものという、架空から離れられんです。あるがようではない、情状で見てしまう。どうにかしようとしている間は駄目です、あるときそいつが失せている、露柱が手に入るんです、すると天地有情悉皆成仏、匂いといい声といい万物いっせいに蘇るんです。信不信の域を超えるんですよ。仏も神も一切預かり知らぬところで
す、しかもこのようにありこのように生まれている、なんたる幸せ200%かくの如くです。はいこれを如来、来たる如しといいます。だれあって如来です、ちらともこれを見ずに死ぬ、なんという情けないことですか。
 随類三尺一丈六とは、便利を云えば千万異化身釈迦牟尼仏ですか、あるときは一茎草あるときは丈六の金身、南山に雲を起こし、北山に雨降らせ、坐りながらどこへも赴くってことあるでしょう、あるいはトンボになったり、酒飲んでるやつの徳利になったり、わずかにこれ露柱。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-08 00:00 | 従容録 宏智の頌古