2005年 04月 01日 ( 1 )

第三十九則 趙州洗鉢

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 衆に示して云く、飯来たれば口を張り、睡来たれば眼を合す。面を洗ふ処に鼻孔を拾得し、鞋をとる時脚跟に模著す。那時話頭を磋却せば、火を把って夜深けて別に覓めよ。如何が相応し去ることを得ん。

挙す、僧趙州に問ふ、学人作入叢林乞ふ師指示せよ。州云く、喫粥し了るや未だしや。僧云く、喫し了る。州云く、鉢盂を洗ひ去れ。
 趙州喫茶去と同じく知れわたって、飯食ったか、なら茶碗洗っておけという、右禅問答代表といったふうです。でもこれ本当に知る人皆無といっていいんでしょう。たいてい茶碗洗ったって、なんの足しにもならんです。
九このまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば良寛辞世の歌といわれるこれ、君なくばちたびももたびつけりとも十ずつ十を百と知らじおやとつけて、はじめてそのなんたるかを、わずかにかいま見るんです。まり一つつけないんですよ、いいかげんであり、ことをなすにお留守、すなわちなってないんです。
趙州無字と同じく、むうとなりおわる、どうしてなかなか一苦労です。わしんとこは鶯のホーホケキョ蛙のげこでもいい、鳴いてみろ鳴けたら卒業という、就中できないです、それじゃ地球のお仲間入りできないよって、地球の困ったさん人間です。
 作入叢林修行道場僧堂そうりんに入るんです、学人修行僧のわたしに乞う師指示、しいじと読みます、わしも老師にどうしたらいいと聞いた。「ただ。」というんです。まるっきりただと。由来今日にいたるアッハッハ万年落第生ですか。ただの垂語、飯には口を張り、睡眠には目を合わせですか、なんせいつだって大仰なんだから、面洗うとき鼻孔を拾得しが面白いです、わらじには脚跟下模著、もしそれをもって本来人、仏教にならんというんです、一句を用いえんようじゃ、飯食っても美食飽人底、あいまいな面して蘊蓄の、うす汚いのそりゃ五万といますな、今の人ほん
とうに味わいうる不可、ソムリエよりゃ赤ん坊の方がたしかですか。すなわち徳山手燭吹滅を味わって下さいというんです。ふわっとごったくさてめえを吹き消しゃいいんです。

頌に云く、粥罷は鉢盂を洗はしむ、豁然として心地自ずから相ひ符す。而今参じ飽く叢林の客、且らく道へ其の間に悟有りや無しや。

 粥罷おかゆの終わったあと、しゅくは、今も叢林僧堂で使っています。一生不離叢林はわしらが基本です、他になんの生活もないんです。文人墨客の一人暮らしなんてものないんですし、隠居隠遁なおさらないです。良寛さんの対大古法、つまり先輩古参は子供たちだった。こんなすざまじい叢林はないです、わしなんぞにはとってもできない。アッハッハまったくなにするかわからん子供です、とうとう一生をともに過ごす。鉢の子洗っておけという、一般のまったくうけがい知らざるところです。
参じ飽いてとはふしだら放逸の反対です。大趙州われより勝れる者は三歳童子もこれを師と仰ぎ、われより劣れる者は百歳老翁もこれに教示しという、六十歳再行脚、かくあってしてはじめて喫茶去です。只管打坐、ただという他にはないんです。鉢盂を洗い去れ、豁然心地の、そうです跡形もなくあい符すんです、この間悟りありやなしや、はいよろしくよく参じて下さい。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-04-01 00:00 | 従容録 宏智の頌古