2005年 05月 15日 ( 1 )

第四十五則 覚経四節

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 衆に示して云く、現成の公案只だ現今に拠る、本分の家風分外を図らず。若し也た強ひて節目を生じ、枉げて工夫を費やさば、尽く是れ混沌のために眉を描き、鉢盂に柄を安ずるなり、如何が平穏を得去らん。

 挙す、円覚経に云く、一切時に居して妄念を起こさず、諸の妄心に於て亦息滅せず、妄想の境に住して了知を加えず、了知無きに於て真実を弁ぜず。

 これおもしろいんです、著語があって不と各節に付く、ノーノーっていうんです、わしもまったくそういって読んでたですが、これもっとも基本の坐の工夫かくのごとくなんです。円覚経清浄慧菩薩の章、非思量底を知らしむとあります。非思量底いかんが思量せん、一切時にあって妄念を起こさずという、身心ものみなを、念起念滅する一般解、というともののたとえですが、そやつをよこしまにする、特殊解するんです、アッハどうもこのたとえあんまりよくないな。孫悟空の頭の鉢ですか、よこしまわがものにすると痛むんです、おれがやったらもうどっかうまく行かない、解放する明け渡すんです、すると虚空が虚空を坐禅するふうです。一応こんな目安でやって下さい。人間、いえわしのこってすか、どうしようもこうしようもないとこあってじきにおれがやっちまうです、なんの取り柄もない、かすにもならんとこをもって、挙げてお手上げです。すると仏の世界に現ずる無自覚ですよ。公式としちゃあまったく二二んが四です。しかもこれ世の人あるいは一神教主義主張の知らないところは、妄想なけりゃないがマル、妄想を除いて真実を求めよう、あるいはそんなことできっこないから、なあなあコンセンサスやるんです。この世を線型に支配しょうという無理無態ですか。君見ずや絶学無位の閑道人、妄を除かず真をもとめず、手つかずの工夫です。まったくただの只管打坐です。そうして工夫がうまく行っているときに、円覚経とねえふーんてなもんですよ、本分の家風強いて節目にあたらず、混沌に目鼻を付けると死んでしまう、そりゃ端にわがことかくの如しだからです、はい手放し。

 頌に云く、巍巍堂々、磊磊落落、閙処に頭を刺し、穏処に足を下す。脚下線絶えて我自由、鼻端泥尽く君けずることを休めよ。動著すること莫れ、千年故紙中の合薬。

 巍高いありさま、巍巍たる金相、堂々たる覚王と、如来お釈迦様の形容です。
ものみな失せて内外同じ、周囲になり終わるんです、自分というよこしまの分がないんです。巍巍堂々とも言葉足らず、磊落もなをけい礙ありですか、威儀これ仏法と云われる所以です。でもそれ宗門人みたいに無内容の猿真似じゃみっともないきりです、心理学の対象にしかならんです。閙はさわがしい、穏はその反対ですか、とかく手を付けたがる、そりゃ騒がしいっぱなしじゃ困る、穏やかに眠っちまってもしょうがない、なんとかしようというんです。なんとかぴったり行くってんですが、脚下線絶えて自由、手を付けない正解なんですよ。鼻の頭の泥ってこれ精妙剣のたとえだったですか、どんな手練れもあるだけ余計なんですよ、これ坐の辺に証明して下さい。
楽になった、なんという広大無辺もまたその皮一枚むけてってことあります。ついにはまったくの手付かず、大海三味箇の大海に埋没するがごとく、どっちどう転んだっていいってことがあって、始めて動著する莫れの仏教入門です。はい今ではもう二千年来の円覚経合薬、なに変わらずの珍重。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-15 00:00 | 従容録 宏智の頌古