2005年 05月 20日 ( 1 )

第五十則 雪峰甚麼

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 衆に示して云く、末後の一句始めて牢関に到る。巌頭自負して上親師を肯はず、下法弟に譲らず、為復是れ強いて節目を生ずるや。為復別に機関ありや。

挙す、雪峰住庵の時、両僧あり、来って礼拝す。峰、来たるを見て、手を以て庵門を托して、放身して出でて云く、是れ甚麼ぞ。僧亦云う、是れ甚麼ぞ。峰、低頭して庵に帰る。僧、後に巌頭に到る。頭問ふ、甚麼の処より来たるや。僧云く、嶺南。
頭云く、曾て雪峰に到るや。僧云く、曾て到る。頭云く、何の言句か有らん。僧前話を挙す。頭云く、他は甚麼とか道ひし。僧云く、他、語無ふして低頭して庵に帰る。
頭云く、噫当時他に向かって末後の句を道はざりき。若し伊に向かって道はば、天下の人、雪老を奈何ともせじ。僧夏末に至って、再び前話を挙して請益す。頭云く、何ぞ早く問はざる。僧云く、未だ敢えて容易にせず。頭云く、雪峰我と同条に生ずと雖も、我と同条に死せず、末後の句を知らんと要せば、只だ這れ這れ。

 雪峰巌頭ともに徳山門下、巌頭が兄弟子です、人も知る雪峰の、我今始めて鰲山成道は、兄弟子巌頭と鰲山というところに、雪に閉ざされて、雪峰は坐し巌頭は足つん出して寝ている、乃至は門より入るものは家珍にあらずという言下にこれを得るんです。この則どうですか、雪峰悟をえたあとですか前ですか、うっふっふどっちでもいいから面白い。もっとも放身して出でてという、並みの人には出来ないですよ、我ごとに投げ与える、これできりゃもうそれ十二分なんです、痛快この上なし。巌頭は、五十五則にあるんですが、師匠の徳山をとっつかまえて、末後の一句やるんです、こんな老婆親切男いないです。そこがぞっこん好きなんですが、しっかりしていることは、他仏祖師方と引けは取らんです。末後の一句さえ道い出でたら、せっかく雪峰も、天下の人如何ともし難し。大丈夫万々歳になったというのに、惜しいことをした。こう云われちゃこの僧忘れることできんです、せっかく雪峰と同死同生底だっていうのに、そいつに気がつかない、すなわちお釣りが出た。どっちみち低頭して帰るも、これなんぞも、寸分の別途ないんです。手つかずならもとかくの如し、どうですか急転直下しませんか。おれのやってること余計事、いったいなんでっていうんです、はいこれ末後の一句。
末期が終わったら死ぬばかり、アッハッハ死人に口なしですか。

頌に云く、切磋し琢磨し、変態しこう訛す。葛陂化龍の杖、陶家居蟄の梭。同条に生ずるは数あり、同条に死するは多無し。末後の一句只這れ是れ、風舟月を載せて秋水に浮かぶ。

 切磋琢磨は今に残った成句ですか、玉を磨いて光りを放つ、せっかく切磋琢磨したやつを、変態こう訛です、変態は今は別様に使うようですが、昆虫の変態など、要するに様変わるんです、こう訛、訛は方言なまり、ごうかという成句があったはずですが、こうは肴に几又です、末後の一句という正論仏教にはあんまりない語ですか、もっとも禅門そこばくの手段、正統仏教とは且喜没交渉ってとこあります。仏教学者も行ない清ましたって、自救不了、まったくなんにもならんのに説教だの、うるさったいばかりです。そんなふうで他の一神教となると恐ろしいです、人類迷妄の歴史は、二千年の落とし前をいったいどう付けりゃいいって、もはや地球を滅ぼすばかりですか。葛陂化龍は、むかしばなしみたいなので、薬売りが壺の薬を売って、売り終わると壺の中に入っている、長房という人が見ていぶかしんで問う、ついで杖をもらって飛んで行き龍に化した云々。陶家居蟄も、蟄龍といってもぐっている龍ですか、雷鳴って龍と化す話、まあ適当に解釈して下さい。生きるは同条数あり、解釈の分にはさなざまあったって、現実はただ這れ、ただもうこうあるっきりです。死ぬるはたった一個。これがどうしても外道にはわからない。せっかく正法眼蔵を外道のまんまじゃ、そりゃ死んでも死に切れない。魚変じて龍と化す那一著如何がです、なにをどうあったってやって下さい、末後の一句アッハッハ死んだらなんにも残らないのですよ、風流の外から面と向かって下さい、枯れ木にも花とともに春風いたる。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-20 00:00 | 従容録 宏智の頌古