2005年 05月 21日 ( 1 )

第五十一則 法眼航陸

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 衆に示して云く、世法の裏に多少の人を悟却し、仏法の裏に多少の人を迷却す。忽然として打成一片ならば、還って迷悟を著得せんや也た無しや。

挙す、法眼覚上座に問ふ、航来か陸来か。覚云く、航来。眼云く、航は甚麼の処にか在る。覚云く、航は河裏に在り。覚退いて後、眼却って傍僧に問ひて云く、汝道へ適来の這の僧、眼を具するや眼を具せざるや。

 法眼宗の祖清涼文益禅師は地蔵桂しんの嗣、覚上座という人に、舟で来たか歩いて来たかと聞く、舟で来ました。舟はどこにあった、河ん中にあった。覚上座退ってのち、かたわらの僧に、どうだあいつは悟ってるんか、悟っておらんのかと聞く。
つまりこれだけのこってす。悟ってたんですか、悟ってないんですか。首をかしげたらはあてどうなんです。正解不正解は自分の辺にOX付けてください、Xを付けてもOをつけてもかすっともかすらんようだと、はあてお話にならんですか、お話にならん人大正解ですか。
 どこから来たか、南から来ましたという、世法ですか。
 答えに響きありという、問うより先に答え、東西南北の風をいとわずですか、庭前の柏樹子と道おうが関といおうが、急転直下するものはする、迷う者はかえって迷うんです、世法を用いるに世法に堕しじゃ、そりゃ生臭坊主の説教みたいに、お布施稼ぎ以外なんにもならんですが、かつてそうではなかった。大道長安忽然大悟は、まがきの外にありと知っても就中とやこうするんです。どこまで行っても迷悟中という、法眼云く、迷悟中と=もとこのとおりの他はなんにもないというのに、どうしてこんなに苦労するのかという、わずかに自分という寸分なんです。そいつがとっつこうはっつこうするんです。正師にも迷わされ邪師にも迷わされというは、迷わされる自
分があるからです。単純な問題。

頌に云く、水水を洗わず、金金に博へず、毛色に昧うして馬を得、糸弦靡うして琴を楽しむ。縄を結び卦を描いて這の事あり、喪尽す真淳盤古の心。

 水は水を洗わず、金は金と交換しない、博は貿易なりとあります、まあそういうこって、仏について仏を説くは下の下ですか、仏教について仏教云々は最低ですか、この事少しでも身につけばそこを以て当たるんです。生臭坊主のわしは女の子大好きの、仕方ない身の上相談引き受けようというと、いえこうして目前するだけでいいという、どっか開けるらしい、わしとて未だしだろうが、誰彼しばらくすると元気になる。檀家なぞとくに無駄話しかしないのです。老師に会うと会うだけでがっさり外れるという、先師古仏たしかにそうであったな。それにしちゃアッハッハオウムやなんとか教みたい、人も寄らんきゃぜにも集まらんな。世法とは違うんです、良馬を選ぶのに毛色に拠らないという、同じ羽根の鳥を呼ぶ一神教じゃないんです、ふりとらしいの嘘八コンクラーベなどいう、どうしてキリスト教の牧師やら、ああいう複雑怪奇な面してるんだろ、そりゃまあわからんこともないけどさ、本当を知らないってだけのこと。真実なけりゃ多数決ですか、民主主義という信仰ですか。琴中の趣を知らば何ぞ弦上の声を労せんという、これも中国の故事ですが、音楽を知るは音楽家であることを要せぬ、むしろ音楽家とはつきあいたくないんです。大人しかこの事に能るなし、ものごとの本来しかないんです。縄を結んで言葉とし八卦を描くもまだなつかしいですか、盤古とは中国開闢の祖ですとさ、即ちそれ以前に向かって求めるがよ
く。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-21 20:44 | 従容録 宏智の頌古