2005年 05月 24日 ( 1 )

第五十三則 黄檗とう糟

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 衆に示して云く、機に臨んで仏を見ず、大悟師を存せず。乾坤を定むる剣、人情を没し、虎児を擒ふる機、聖解を忘ず。且らく道へ是れ何人の作略ぞ。

挙す、黄檗衆に示して云く、汝等諸人尽く是れとう(口に童)酒糟の漢、与麼に行脚せば何の処にか今日あらんや、還って大唐国裏に禅師無きことを知るや。時に僧あり出でて云く、衆を領ずるが如きは又作麼生。檗云く、禅無しとは道はず只是れ師無し。

 黄檗希運禅師は百丈懐海の嗣、臨済の師です。身の丈豊かにして一掌を与えるを以てす、生得の禅なりと、なんともずっぱり頼もしい感じです、とう酒糟の漢は酒かす食らう男、古人の糟粕たる言句葛藤に纏縛せらるをいうと、くそかきべらと同じですか、人のひりだしたものを、ああでもないこうでもないです、世間一般ならともかく学人出家がというわけです。せっかく生まれて生きた覚えもないではないか。100%生きるにはいったん死なねばならん道理です。思い込み観念の死=肉体の死、わがものにしようとする欲望をひっぱがされる。知識学問にしがみつくんですか、死にたくないというやつですよ、これが奪い去られる、肉体の死以前に真実のといったらいいか、ほんとうの死なんですよ。でもって100%生きとは比較に拠らないんです、仏を希求してついにそれっきりになった人が、まるっきり仏を知らないんです。
大悟した人が師を知らず。
 生まれたまんまの赤ん坊にして、世間あらゆる常識を貯えているんです、一切事を卒業して、乾坤天地宇宙です。人情というしがらみに拠らない、うっふっふ死にゃそうなる、もっともたいへんなこってすよ、わずかに自由を得る。肉親兄弟あるいは来し方無惨を免れる、いいえ免れるなんてことないです。黄檗の母何変わらずや、一箇のありようただこれ。他なしにこうあるっきりです。虎児を擒はとらえる、虎児を得るおたからを得るんです、たった一回きり取る、アッハッハ単純明解他なしですよ。
聖凡かまっちゃいられんですか。おまえらみんな人のかすばか食っている、そんなんで行脚したっても、昨日ばっかり、今日にならんていうんです。かえって大唐国に禅師なきを知るや。一僧出て、でもあなただって、こうして大衆を領しているではないかってわけです、檗云く、禅なしとは云わず、ただこれ師なし。どうですか見事にこれは一則です。

頌に云く、岐分かれ糸染んで太はだ労労、葉綴り花聨なって祖曹を敗す。妙に司南造化の柄を握って、水雲の器具しん陶に在り、繁砕を屏割しじゅう毛を剪除す。星衡藻鑑、玉尺金刀、黄檗老秋毫を察す。春風を坐断して高きことを放さず。

 曹はつかさ、獄官裁判官の意、祖曹でもって祖師方、せっかくお釈迦さまが単純を以て示し、天地有情と同時成道の、綿々他なしに伝わってきたのに、仏教思想だの宗宗門ノウハウだの、枝分かれ花連なりついには敗壊、ただすのにもって黄檗ほどふさわしい人はなく、司南造化というまっしんもってどうだとやるんです、しん陶はろくろ、雲水用具をこさえるはろくろにあり、行脚というからですが、まずはもってそういうこってす。繁砕じゅう毛は鳥のうぶ毛ですが、あっちこっち枝葉末節は、即ち我欲妄想に流れるによってです。そうではないはたしておのれはどうかという、それっこっきり、これが就中できないんです。世法は捨てても仏法は捨て切れぬ、おれはどうなった、道が進んだやれどうだという、結局は世法なんです。身心挙げて仏の家です、ちらとも悟れば仏に返す、帰依というこれ。いいですか、人という他に生き様はないんですよ、捨てるという捨てたという、なにかしら残ったらそりゃなんにもならんです、無料奉仕以外ないんですよ。するとものみな法界が応じてくれます。星衡藻鑑はかりの目が正確なことは、因果応報微塵もごまかしが利かんです、玉尺金刀たとい黄檗なくとも、おろそかにならぬばくやの剣です、ちらともありゃばっさり切られを知る、ようやく参禅の戸口です。高きことを許さず、そうですよ差し当たって先ずはこれに見習う。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-24 00:00 | 従容録 宏智の頌古