2005年 05月 27日 ( 1 )

第五十七則 厳陽一物

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 衆に示して云く、影を弄んで形を労す、形は影の本たることを識らず。声を揚げて響きを止む、声は是れ響きの根たることを知らず。若し牛に騎って牛を覓むるに非んば、便ち是れ楔を以て楔を去るならん。如何が此の過ちを免れ得ん。

挙す、厳陽尊者趙州に問ふ、一物不将来の時如何。州云く、放下著。厳云く、一物不将来箇の甚麼をか放下せん。州云く、恁麼ならば即ち担取し去れ。

 厳陽善信、趙州の嗣とあるのでついにこれが基本技をぶち抜いたんでしょう、なんにももっていないと云う、放下著捨てろという、なんにもないものをどうやって捨てるんだ、そんなら担いで帰れ。まず十人中十人がこれです。なんにもない自分を見ているんです、見ている自分があることに気がつかない。空といい無心といいする、ちっとも空でなく有心です。ないんじゃなく騒々しいんです、楔をもって楔を抜くことの自己満足ですか、さっぱり仏教にならんのです、学者説教師のたぐいこれ、まったくマンガにもならんです、醜悪というより世間一般路線です、それじゃさっぱりおもしろくない。清々比するなき箇のありようという、絵に描いた餅じゃそりゃ、せっかくの人生台無しです、アッハッハ人生台無しにして初めて得るんですか。影を弄んで形を弄すること、いつまでたっても糠に釘です、はいまったくの糠に釘になって下さい。ついにはかすっともしない、声に出してもはやおしまいを知らない、知らないんで是ですか、人に感動を与える歌手というには、自己満足自己陶酔のこれっから先も無きがよく、音痴は音痴を気にするから音痴という根も葉もないんです、なにしろこの基本技をマスターして下さい、担いで帰れと云われてちらとも反省して下さい、たいていまったく気がつかない。すなわちどうしようもこうしようもない自分です、そいつをひっ担いでああでもないこうでもないが、免れない、せいぜい妄想が出なくなったとかすっきりしたとかやっている、すると別時元の木阿弥です、実になんにもなっていないということに、いやというほど気ずかされる。ちらとも反省しますか、学者だのとかてんから気も付かずに行く。人とはほんとうに切羽詰まるということなければ、担いで帰れの一言身にしみぬものなのか、本来真面目の比較を絶する一物不将来にでっ食わさぬのか、まそういうこったですが、ちらとも知ることあれば、他雲散霧消。

頌に云く、細行を防がず先手に輸く、自ら覚ふ心麁にして恥ずらくは撞頭することを。局破れて腰間斧柯爛る、凡骨を洗清して仙と共に遊ぶ。

 これは碁の話から来る、王質という人が斧を持ち山へ行くと、碁を囲む四人の童がいた、棗の実をもらって食べると飢えず年取らず、一局終わってみると、斧が錆び腐っていたという、聊斎志異にあったな。細行を防がず先手に輸は負けるんです、一石おくのをうっかりしていて取られちまうこと、これはせっかくなんにもないまで行って、もう一歩押すところを手抜きですか、実はこの一歩こそが坐禅であり仏教です。唯識がどうのあらや識がどうのお釈迦さんのころはああだこうだいう、学者仏教をまずもって捨てる、でなきゃ始まらんですが、ついには一物不将来です、もとなんにもないことを知る。生まれたまんまの本来人でこと足りるんです、他一切いらないという、出家とはそういうことです。世間事一切を尽くす、免れ出てということあって、すっぱだかです。自ら思う心麁は鹿が三つで荒っぽいんです、世間事=学者仏教がなんという恥ずべき荒っぽさかを知る、撞頭死ぬべくしてようやく仏入門です。一局尽くし終わって、腰間斧柯あらゆる手段は腐れ落ちるんです、もはや世間には帰れないんですか、アッハッハそりゃそうですが、却来する世間おもしろいんですよ、もっとも仙と遊ぶ以外ないとこありますがね。世の中に伍して行くんではなく、そうですねえ、こんなにおもしろいことかつてなかったんです。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-27 00:00 | 従容録 宏智の頌古