2005年 07月 03日 ( 1 )

第六十五則 首山新帰

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 衆に示して云く、咤咤沙沙、剥剥落落、丁丁蹶蹶、漫漫汗汗、咬嚼す可きこと没く、近傍を為し難し。且らく道へ是れ甚麼の話ぞ。

挙す、僧首山に問ふ、如何なるか是れ仏。山云く、新婦驢に騎れば阿家牽く。

 たたささ、はくはくらくらく、如何なるか是れ仏と問われて、まさにこう答えたかどうか、取り付く島もないんですが、ぜんたい箇に帰る、自分=取り付く島もなしと知るにいいんです。咬みがたく咀嚼しがたし、手をつければ大火傷を負うを知って、ついに手つかずになる、これを参禅という、単純を示すんです。でもなんにもないかというと、なんにもないものを得るのに、新婦ろばに乗れば姑これを引くと、どうあっても一言あるわけです。まあだからどうの云ってないで、なんでもありありです、登竜門です、全霊もっての跳躍ですか、諦めて下さい。急転直下は、アッハ
ッハまったくこの世から去ればいいんですか、私というものなくものみなが呼吸し、座禅しているんですよ、そうしてどうやら真相他にはないんです。首山の宝応省念禅師は風穴延昭の嗣。

頌に云く、新婦驢に騎れば阿家牽く、體段の風流自然を得たり。笑うに堪えたり顰に学ふ隣舎の女、人に向かって醜を添えて妍を成さず。

 西施心を病む、心を捧げて顰すれば更に美を益す、隣家の醜女醜に習って更にその醜を増す。という故事をひく、象潟や雨に西施が合歓の花と、芭蕉の句にある中国美人代表、まあこれ意味を云々したい人には、仏を学ぶを新婦、ようやく生涯落処定まって、いよいよもって師家に手を引かれて行く、といった処ですか。姑だでアッハッハそりゃどえらい目に会うぞよってのは蛇足、うまくその風流自然を得たりというからには、頌に云く一段の新風ですか。あんまりそうも行かず、あとつけるには、しかめ面の新婦のまねしていよいよ醜くという、そりゃ人まね横滑りの修行はしかめ面残るだけです、まあたいてい坊主だの学者それやってるですがね、驢に騎ろうがなにしようが、大乗自ずからです、もう他なしということあって、そりゃ美醜も分つ、洞然明白おのれ無うしてだのに、なんとしてかおのれを用いる、アッハッハ実にこれ不可思議千万てね。

画像の出典  ホトケノザ/静岡県静岡市葵区にて撮影 2005年春
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by tozanji | 2005-07-03 14:19 | 従容録 宏智の頌古