2005年 07月 05日 ( 1 )

第六十七則 厳経知慧

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 衆に示して云く、一塵万象を含み、一念三千を具す。何かに況んや天を頂き地に立つ丈夫児、頭を道へば尾を知る霊利の漢、自ら巨霊に辜負し家宝を埋没すること莫しや。

挙す、華厳経に云く、我今普く一切衆生を見るに、如来の知慧徳相を具有す、但だ妄想執着を以て証得せず。

 華厳経は釈尊成道の直後、自内証の法門をそのまま説かれたものとある、華巌経も法華経も一言半句しか読んだことがないので、とやこういうわけにゃ行かぬが、安芸の宮島へ行って平家納経を見たとき、長年普門品第二十五というのを一巻だけ読んでいたら、展示の三巻が読める、感動した。今ではもう日本人には書けぬ、美しいすばらしい真面目の字であった。たとい平家滅んでもこれは残る、日本人滅び去っても残る。いえ平家納経雲散霧消しても、仏も仏法もちゃーんとあるんですか。人はその中に生まれ、大法のこれあるがまんまに生きる、ただ転倒妄想の故にないがしろにし、あきめくらをやっていて、しっぺ返しを食うのは自分と傍迷惑ですか、そりゃしょうがないたって、しょうのないことに気がついたら、元へ帰ればいいです。一箇光明なれば四維を照らすんです、世の中よくしようには他の方法はないんです。宮沢賢治は、世界中が幸せにならなければ個人の幸せはないといった、それは西欧流の思考です、美しい詩人の魂ですか、賢さは大好きですが、これは間違っています。一塵大千世界です、一念宇宙そのものです、どうか一個でも半分でも光明になって下さい、次の一個が光明になります、そうして一個半分光明ならば、世界現ずるんです、なにけちなこと云わない、まさに妄想執着の故を以てです、もと明白もと洞然、如来の徳相知慧愚痴のまんまです、実にこれお釈迦さんがはじめて気がついたんです、よくよく見て取って下さい。巨霊という、そのあるがまんまに辜負、とってもそんな大それたものはとやるんです、でもってせっかくの宝蔵が台なし。

頌に云く、天の如くに蓋ひ地の如くに載す。団を成し塊を作す。法界に周うして辺なく、隣虚を折ひて内無し。玄微を及尽す、誰か向背を分たん。仏祖来って口業の債を償ふ。南泉の王老師に問取して、人々只だ一茎菜を喫せよ。

 天王の思清禅師上堂、払子を竪起して云く、只這箇天も蓋ふこと能はず、地も載すること能はず、遍界遍空団と成し塊と作す。というによる、法界に周ねく隣虚を砕くことは、まずもって参禅の人これを得て下さい。地なく天なく清々としてあまねくこれ、玄微を及び尽くすんですか、無心という無身という、自分という口実のまったく参加しないんですか、たとい坐中向背あろうともまったくかすっともかすらないんです、わしのような猫背姿勢のかたくな、どうにも気にすること長かったですが、そんな必要はまったくないんです、もとこの通りあって手つかず、仏祖だけが、人類百万だらの申し訳をしようっていう、アッハッハまさに坐禅とはこれ、でなくば間違いだらけの、いっそ救われん、実にそういうこってす。如来これ、だから仏像おったてることはないよって、南泉と杉山とも、菜っぱをそろえておったんでしょう、一茎草をとって威なるかな、大いに供養するによしとやったんです、百味珍羞もまた省みずと、あるときは丈六の金身あるときは一茎草、私するなんにもなければ正解、仏というそりゃ供養に足るんですよ、ええ、あなたもです。

画像の出典  野あざみ/静岡市 2005年5月撮影
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by tozanji | 2005-07-05 15:58 | 従容録 宏智の頌古