2005年 07月 07日 ( 1 )

第六十九則 南泉白こ

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 衆に示して云く、仏と成り祖と作るをば汚名を帯ぶと嫌い、角を戴き毛を被るをば推して上位に居く、所似に真光は輝かず、大智は愚の若し、更に箇の聾に便宜とし、不采を佯はる底あり。知んぬ是れ阿誰ぞ。

挙す、南泉衆に示して云く、三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白こ却って有ることを知る。

 南泉普願禅師は馬祖道一の嗣、道元禅師が栄西禅師に如何なるか是れ仏と問うて、三世の諸仏知らず、狸奴白こ却って是を知ると、云われて、ようもわからんです、万里の波頭を越えて入宋沙門となる。りぬびゃっこは狐狸の類だと思っていたら、狸奴で猫白こ(牛へんに古と書く)は牛という、ひっくりかえして狸奴白こ知らず、三世の諸仏却ってこれを知るといったら、この世に仏祖がいなくなる、でも世間おおかたの意見これ、仏仏を知らずということを知らない。別段仏となり祖となるを、汚名を帯びるといって嫌い、なとややっこしいこといらぬ、朕に対するは誰ぞといわれて、不識知らないという、それそのまんまです。坐っているでしょう、坐っているあなたは誰と自問自答するに、直きに知らないと答えが返るんです、知っている分がみな嘘です、あるいはどのような自負も私も一瞬のちにはついえさる、糠に釘ですか、そうなると如来の相を現ずるも間近いんです。如来、あなたはだあれ、知らないという花のように咲く、人間の如来は人間に同ぜるが如しです。きつねたぬきと、あるいは猫牛という、もしやよっぽど人間よりも知らない類、けだものという時に人間のほうがずっとけだものだ、なぜか、観念に捕われて野卑です、たとい強姦殺人もなにかしらの智恵考えによる、それに捕われぬ工夫あって免れるんです。
よくよく見て取って下さい、自救不了の如何なる原因か、我をなにかしらと見做す、まずもってこれの根本を糾して下さい。俄か坊主が思想だの、らしくだの大威張りかいている、滑稽だが本人は気がつかない、世間人の延長なんです、どうしてもこれ、如何なるか是れ仏と問いなおす必要がある、三世の諸仏知らずと示すには、たとい南泉もおうむ返しでは、そりゃ効き目ないです。効き目ないことを知るが先決、とは情けない。

頌に云く、跛跛挈挈、繿繿纉纉、百取るべからず、一も堪ゆる所なし。黙々自ずから知る田地の穏やかなることを。騰騰誰か肘皮敢心なりと謂はん。普周法界渾て食卞と成す。鼻孔塁垂えおして飽参に信す。

 跛はちんば挈はてんぼ、繿は監に毛で髪の乱れて整わぬさま、纉は参に毛でおんぼろけ、そうですねえ寒山拾得の図でも思い浮かべますか、なりふりかまわぬありさまです。百取るべからず、一も堪ゆるなし、これ就中出来ないですよ、坐っていてどうしても運転するでしょう、どこまで行っても物差しです、ああだこうだやっている。まして況んやしゃば人間をやです。そいつがまったく手放しになる、すると三世諸仏ですか。つまらんわしというしかないんです、ほんとにどうもこうもです、しかもそいつを観察しないでいられる、ほったらかしに忘れ去る。黙々自ずから知る田地の穏やかなることを、実に云いえて妙です、なんでもありありのどうもこうもないんです。たとい転んでもただでは起きないんですか、いいですか、もう終わってしまったんですよ、ふたたび鍛え直してという、頭にたがはめないんです。文句のつけようにないものみな法界です、文句をつける自分が失せる、食卞は飯に同じだってさ、敢心はばかですってさ、肘皮つっぱらかったって、虚空そのものなんです、騰騰しようが、わけもわからん曖昧しようが、たとい呑却し終わってどうもこうもならんです、鼻孔塁垂として飽参に任す、はいそうですねえ、このように坐って下さい。
画像の出典  れんげ、ヤマソ、蕗、クローバーなど/静岡市
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by tozanji | 2005-07-07 00:00 | 従容録 宏智の頌古