2005年 07月 08日 ( 1 )

第七十則 進山問性

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 衆に示して云く、香象の河を渡るを聞く底も已に流れに随って去る。生は不生の性なるを知る底も生の為に留めらる。更に定前定後、笋となり蔑となることを論ぜば、剣去って久しゅうして爾方に舟を刻むなり。機輪を踏転して作麼生か別に一路を行ぜん。試みに請ふ挙す看よ。

挙す、進山主、脩山主に問うて云く、明らかに生は不生の性なることを知らば、甚麼としてか生の為に留めらるるや。脩云く、筍畢竟竹となり去る、如今蔑と作して使ふこと還って得てんや。進云く、汝向後自ら悟り去ること在らん。脩云く、某甲只此の如し上座の意志如何。進云く、這箇は是れ監院房、那箇は是れ典座房。脩便ち礼拝す。

 進山主、清溪洪進禅師、脩山主、龍済紹脩禅師、ともに青原下八世地蔵桂しんの嗣、つまり進山主は監院、住職に代ってお寺の行事など一切を司る役、脩山主は典座、会計から食事など一切を司る、ともに重職である、今も僧堂で同じに続いています、ともに法を得ることなければそりゃ無理です。雑っぱ一からげの無理無体じゃしょうがない。生は不生の性なることを知って、不生不滅、不垢不浄、不増不減と心経にある、このとおりものみなのありようです、だからどうのの理屈ではなく、不生の生なんです、しかも生きるという、生死というこの中にあってとやこうするんです、生の為に留めらる、大問題です。
本当には悟っていないんではないか、法とは別個やっているんではないかという、あるときは是あるときは不是やるんです。すると是非やっている自分ごと持って行かれるんですか、気がつくとなんの問題にもならんです、そっくり自分というものなしにある。死ぬあるいは生老病死、あるいは四苦八苦そのままに行くんです。たけのこはひっきょう竹になる、こっちのとやこう斟酌の他なんです、とやこう斟酌のアッハッハそのまんまにですか。蔑は竹かんむりで、竹の皮で作った縄ですとさ、襪という靴のような指なし足袋のこったと思ったら違った、どっちでもまあ終に皮を残すってやつ、わが大法には用いることが出来るかというんですか、まだたけのこだっていうんですか、筍も笋も同じです、なあにそのうち自ら悟り去ることあらんと。それがしただかくの如し、就中正解なんです。使うべき皮など考えないんです、いや人は知らず後輩のわしなんてまったくただこれ、日毎にただこれってしかないです。上座の意志如何と聞きうる人幸い、一人つんぼ桟敷やってるわけじゃさらさらないんです。こっちは監院寮そっちは典座寮、はいといって礼拝し去る、よきかな。

頌に云く、豁落として依を忘じ、高閑にして覊されず。家邦平帖到る人稀なり。些些の力量階級を分つ。蕩蕩たる身心是非を絶す、介り大方に立って軌轍なし。

 豁落がらりからりというんですが、なんにもないさまなんですよ、依存を忘れることは、就中困難なんです、ついにかくの如くあれば如来、わがことまったく終わるんです、さあどうにかして得て下さい、高閑にして覊されずといって、依存症やっていませんか、仏あり外道ありする四分五烈ですか、ただこれ家国あるによる、守るべき自分、従うべきなにかしらあって、上には上があり
している、それじゃ囚われ人です。おれは悟れない人間だからといって、安穏に座し、、おれは俗人だからといって、他を汚す。なぜかというに、そのまあうんこ小便のむじな穴から一歩も出たくない、いじましいったらしかも、人をあげつらって生きています。共産主義みたいに無知という無恥をもっての故にものごとありですか。傍迷惑というだけが、誰彼極端に疲弊するかに見えて、一人二人箇の真面目ということあって、宇宙三界形をなすんです。蕩々任運にまかせるんですか、ものみな200%ということです、映画を見てとやこう批評より、映画になっちまって無感想です、介、ひとり大方に立って軌轍なし、完全なんですよ、いいからたったいっぺんやってごらんなさい。

画像の出典  山吹 / 2005年春・静岡市
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by tozanji | 2005-07-08 00:00 | 従容録 宏智の頌古